その6(後)
90胡蝶の夢(side Real)◆◆◇
「ふむ、これは」
「なんかわかったのかじいさん」
「ええい、そう急かすな」
自分と彼とご老人。アンティグア島にある造船所の一角にて、3人で件の小さな木箱を囲んでいた。
大規模な船渠といくつかの造船所があるアンティグア島にてポーラータング号を待ち構えていたのはオールバックの白髪に真っ赤なサンバイザーを付けた70代がらみのご老人だった。真っ白な髪とは裏腹に、ピンと伸びた背筋に矍鑠としたその様子に目を瞠る。……ただその非常に個性的な柄のシャツだけはどこで購入したのか気になったが。
アンティグア島に着くと、ご老人が先に話を付けてくれていたのかポーラータング号はメンテナンスの為早々にある造船所へ搬入された。メンテナンスが終わるまで技師チームを除いた船員は一旦この島で自由行動になるらしい。ヴォルフ―!元気だった―!?とご老人に駆け寄る一部を他所に次々と下船していく船員達を眺めているとお前はこっちだと彼に腕を引かれた。
引っ立てるように連れて行かれた先で、白髪のご老人は老いてなお鋭い目でこちらを睨みつけ『お前がローの言っていた”訳あり”か』と言った。
「……ふむ。だいたいわかったわい」
「本当ですか!」
「ワシを誰だと思うておる!稀代の天才発明家ヴォルフ様じゃぞ!」
「いいからさっさと結論を言え」
木製の小箱をしばらく弄繰り回してたご老人は全くせっかちな奴めとぼやきながら話し始めた。
「これはつまり観測器かつ映写機みたいなもんじゃ」
端的すぎる説明に疑問符が浮かんだ。観測器で映写機?同じ疑問を抱いたのか彼も眉間に皺を寄せている。
「どういう意味だ」
「言葉のままじゃわい。これは使用者に一定の法則に合致した世界を観測させる機械らしい。ご丁寧にこの小箱を核に使用者の観測用義体まで生成しての。全くこれを作った輩の頭の中が覗いてみたいぞ。どんな発想があればこんな物が作れるのか」
ご老人の話を頭の中で反芻する。観測器、法則に合致した世界、小箱を核にした義体?つまり、これは。いや、自分は。
「つまり”訳あり”は、今現在、非常にリアルな夢を見ているような状態だと考えればいい。明晰夢という奴じゃな」
「夢……?」
「ワシらにとっては紛れもない現実だがな。”訳あり”にとっては寝ている間に見た夢のひとつに過ぎんよ。まあ単なる夢より非常にリアルで、ここで得た経験も起きた後に引き継がれるだろうが。この小箱自体そういった用途で作られたもんじゃろうし」
今ここで会話してるのが、全部自分の夢?理解の及ばない話に思考がついていかない。しかし、隣で話を聞いていた彼にとってはそうではないようで、彼は何か得心したような表情をした。
「つまりこいつはここにいるように見えて実際にはここにいないのか。なるほどそれなら納得する。──こいつはCTに写らない」
聞いていない話に思わず彼の方を見る。自分がCTに写らなかった?
「船内で行った画像診断の類は全滅だ。撮影するまでは確かに見えるのに実際にデータに起こせば真っ黒な画像が出力されるだけで何も写ってねえ」
彼からもたらされた初耳の情報に驚愕する。そういえば起きてからいくつか検査を受けさせられたが、結果を確認した彼が奇妙な顔をして自分に見せてくれなかった事を思い出した。そういう事は早く言ってくれと思ったが、言っても何も変わらねえだろ、という視線を返される。
「そうじゃろうな。この小箱の効果範囲から外れれば観測用義体の再現が終わる。血液検査くらいであればいけようが本格的な計器による観測までは騙せるまい」
彼の話に同意するご老人。本当に本当の話なんだろうか。まだ信じられない。今まで体験してきたこと全てが、全部夢?
「それでじいさん、こいつが夢から醒めるにはどうすればいい?」
「観測先を選定する条件まではもう少し調べてみないとわからんがの。機械を止めるだけなら簡単じゃ。この小箱から発生する人の耳には聞こえぬ特定の周波数が義体の再現と維持を行っているようじゃから、この”音”を止めれば小箱も自然と停止し、”訳あり”も元の世界で目覚めるだろう」
さて、土に埋めるか、水に沈めるか。そうぶつぶつと考え始めるご老人を遮って彼は口を開く。
「”音”ならおれがどうにかできる。──お前はあっちに戻る心の準備でもしてろ」
◆◇◆
ご老人がもう少し小箱を調べさせてほしいと言った為、自分が元の世界に帰るのは数日後の予定になった。
その話が決まった時、彼はここ最近で見慣れてしまった類の笑顔を浮かべて「肉体のダメージがフィードバックされないならちょうどいい。能力の訓練を続けるぞ」と言い。帰る直前までしごかれる事になったのはここで語るべくもない。
そして、ついにその日が来た。
「若先生元気でね―!」「達者でやれよ」「頑張ってこいよ!!」
自分が帰る事を伝えればハートの海賊団の船員たちは見送りに集まってくれた。短い間ではあったが、非常にお世話になった彼らにひとりひとり感謝を伝える。しばらくして彼と小箱を預けていたご老人がドックの奥から出てきた。
「別れは済んだようだな」
「はい。……本当にお世話になりましたロ、……トラファルガーさん。ヴォルフさんも」
「ふん、お前には面白い物を見せてもらったわい。向こうでもせいぜい元気で過ごせよ”訳あり”」
ご老人の手から小箱が返却される。やはり何の変哲もない小箱にしか見えないが、この箱から流れる聞こえない音が自分を形作っているらしい。実感はついぞ湧かなかったが、小箱をそっと握りしめると心臓がとくりと脈打った。
「心残りはないか?」
「はい。もういつでも」
自分の言葉に頷いた彼は”R・ROOM”と呟く。その掌に現れた半透明の小さな球体が木製の小箱を包み込む。彼の唇が”凪”と紡ぐのが見えた瞬間、耳には聞こえない音がぶつり、と途切れたのを感じた。
「ありがとうございました皆さん!」
どこまで届くかわからないが、最後に精一杯の大声で叫んだ。
この世界でお世話になった人々に感謝を。そして。誰よりも一番感謝を伝えたいのは死の外科医と呼ばれるもうひとりの自分。結局、彼と個人的な話をする事はできなかった。でもこれで良かったのかもしれないとも思う。彼が自分の人生を知らないように、自分の知らない16年間は彼の人生だ。知らない方がよい事もある。
ただ、やはり心残りではある。その心残りを感謝に変えて精一杯叫んだ。きっと目覚めてしまえば恩の返しようのない恩人たちに届くように。
蝶のオルゴールから流れる歌。その曲が断ち切られると同時にぷつん、と画面が切れるように至極あっさりとその存在は掻き消える。
そうして、彼の知る埒外の話ではあるが、30億の賞金首と瓜二つの顔でひっそりと世間を騒がせていた男はこの世界から姿を消した。
◆◇◆
これはフレバンスから来た若医者が帰る数日前に、死の外科医と呼ばれる男とその友人であり事実上の養父である老人の間で交わされた会話。
ドック内で借り受けた実験室で件の小箱の解析を進める老人の傍らで死の外科医と呼ばれる男は手持ち無沙汰そうに学術書を開いていた。その様子を横目で見た老人は、言葉を選ぶように問いかける。
「──ロー、あの”訳あり”についてそろそろ教えてはくれんか?この小箱の存在自体もそうじゃが、お前ら二人はあまりにも似過ぎとる。他人の空似で済ませるには無理があるぞ」
その問いにローは頁をめくる手を止めた。少しの沈黙の後、しぶしぶといった風情で口を開く。
「あいつはあいつでおれはおれだ、じいさん。だが、あいつの言葉を借りるならあいつは別世界のおれらしい。……あっちじゃフレバンスはまだあるんだとよ」
「!、そうか」
老人にとって事情を理解するにはその言葉だけで十分だった。
「オペオペの実の能力の使い方は可能な限り叩き込んでやった。あとはあいつ次第だ」
「……ロー、お前は本当にそれでいいのか?」
「これ以上おれに何ができる?それより手が止まってるぞじいさん」
この話は終わりだとばかりに読みかけの本を開く若者に老人は納得いかない顔をしていたが、それ以上話を続ける事はなかった。
フレバンスへの帰還(side IF)◆◆◆
ぱちり、と目を開けると見慣れた天井が見えた。ゆらゆらとした感覚にここが軍艦の内の自室である事を察する。身を起こすと身体が固まっていたのか関節から嫌な音がした。さて自分はどのくらいの時間眠っていたんだろうか。寝台から立ち上がりながら記憶にあるものと異なり、傷ひとつない自分の手足を眺める。本当に夢だったのか、と思った。あの世界での旅も、死ぬかと思った怪我も、彼や彼の仲間との出会いも。身体には傷跡ひとつなく、確かにあの世界があった証明するのは自分の記憶だけである。
ふと枕元を見るとあの小箱が置いてある事に気づく。きっともう音はしないという半ば確信めいたものを抱きつつそれを鞄の奥へしまい込んだ。
外に出てみるかと考えた所でがちゃり、と船室の扉の開く音がした。そこから見えた金髪に、ああ本当に帰ってきたんだなあという感情を抱く。
「ろ、ロー先生、目が覚めたのか!」
「はい。ご心配をおかけしました。──オペオペの実の能力を使えるようになりましたよ、ロシナンテさん」
自分の言葉に驚愕の表情を浮かべるロシナンテ少将に少しだけ笑ってしまった。
◆◇◆
「ロー、よく帰って来たな。本当に無事でよかった……」
「っ、ただいま。──おれは珀鉛病を治してみせるよ、父様」
自分が眠っていたのは数日の間だったらしい。あの世界で過ごした期間は到底数日ではなかったと思うが、その辺は都合よくできている。ご老人の言った通り、あの世界での出来事はしっかりと覚えていた。彼から身体に叩き込まれた能力の使い方も全て。それを確かめるように目覚めてから自分の身体を使って珀鉛の除去を行った。船内で問題なく手技が終了した時には少し泣きそうになってしまった。
”ROOM”もあちらにいた時より安定している。術後に心なし薄くなったような気もする右肩の白斑をなぞる。まだしばらくは外用薬による保護も必要だと思うが、珀鉛病が治る病だと自分の身をもって証明できた事が言葉にできない程に嬉しかった。
程なくして帰り着いた故郷の港で自分を出迎えてくれた家族と抱きしめ合う。
やっと白い町に、フレバンスに帰ってくる事ができた。ちゃんと珀鉛病の治療法を見つけて。
フレバンスに到着してからの動きは早かった。海軍本部から同行してくれた医療班のスタッフ、地元の医療者と共に臨時の珀鉛病治療拠点を立ち上げる。各種検査による珀鉛病患者のトリアージを行い、未発症~軽症の患者は珀鉛の排出促進剤による治療を開始。中等症以上の患者は拠点とした医療施設内で臓器に負担のかからない範囲で内服薬を使用しつつ経過観察。そして重症から末期の患者は。
手術室に運び込まれた複数の患者を前にキュッ、とラテックス製の手袋を嵌める。肌に張り付くその感触に、心を落ち着けるように一度深呼吸をした。
脳裏に浮かぶ彼の姿を真似て、その言葉を口にする。
「”ROOM”」
”ROOM”を展開すれば大量の情報が脳内に流れ込んできた。とめどなく押し寄せる洪水のようなそれに押し流されそうになりがら必要な情報を取捨選択していく。”スキャン”。患者ごとの珀鉛の局在部位の特定。”タクト”。問題ない。宙に浮かんだ全てのメスが自分の手の延長線にあるかのように動かせる。
さあここからが正念場だ。末期珀鉛病患者に対する体内に貯留した珀鉛の外科的除去術。この世界で今それができるのは自分ただひとり。
何に変えようと絶対にやり遂げてみせる。そう心に誓って施術を開始した。
◆◇◆
つつがなく、とはいかないがフレバンスからの出国者の護衛の任を全うしたロシナンテは若医者と医療班を送り届けた後、支部の駐屯所に滞在していた。
煙草をくゆらせながら各地に潜入している部下たちから秘密裏に届けられた報告書に目を通す。珀鉛病治療支援に消極的だったフレバンス政府、CPを動かしてまで珀鉛病の情報統制を行う世界政府に、情報統制されているにも関わらず珀鉛病が感染症だという風評が異常な速度で広まっている周辺諸国。この一連の流れに関しては明らかな作為を感じざるを得ない。
そして先日、養父からもたらされた情報を思い出す。
『フレバンスからの退去命令、ですか?』
『内々にだがな。原因不明の病からの保護の名目で世界政府からフレバンス支部の海兵を引き上げさせろ、との下知が出た』
『その命令に従う必要はありますか、センゴクさん』
『さて。世界政府のお偉方は珀鉛病を治らない病だと思っているらしいが、実際は違うだろうロシナンテ』
『はい。珀鉛病は既に原因が特定され、治療法が確立した疾患です。オペオペの実の能力者がその能力で珀鉛病を完治させたのを確かにこの目で確認しました』
『ならば海兵を撤収させる必要はあるまい。そもそも支部の海兵にはフレバンスに家族を持つ者も多い。家族を置いて自分だけが逃げる等承服しないだろう。だが、こうも関与してくるとなると世界政府にはどうにも探られたくない腹があるらしい。──ぬかるなよ、ロシナンテ』
『はい、センゴクさん』
養父の判断で保留となったフレバンス支部の海兵に対する退去命令。駐屯所では今も海兵たちが珀鉛病治療の支援に忙しく走り回っている。何せ治療対象はフレバンスの全国民だ。患者の移送、療養場所の確保、在宅患者の支援に国との折衝と医療者以外の人出がいくらあっても足りないのだ。
咥えた煙草から灰がこぼれる。短くなったそれを灰皿の上でもみ消した。
部下からの報告書に端的にまとめられた情報。それと手持ちの情報を合わせて凡その事態を把握した。フレバンス政府の不自然さも世界政府の不穏な動きの理由も。
「なるほどなあ、そういう事か」
己の任務が今しばらく続く事を悟りながらロシナンテは2本目の煙草に火をつけた。
◆◇◆
夜。ロシナンテの姿は珀鉛病の治療拠点となっている医院にあった。
昼夜なく煌々と洋灯が灯されたそこでは今も多くのスタッフが珀鉛病治療の為に奔走している。中核になっているのはあの若医者だ。替えの効かないオペオペの実の能力者。最低限の休息の他はほぼ手術室にこもりきりだと聞いている。彼を信じてオペオペの実を託したのは己だが、能力者になったばかりであまり無茶をしては倒れるのではないかという心配がある。穏やかそうにに見えて割合頑固な所のある青年であるから忠告しても素直に聞きはしないのだろうが。
いつもの癖で煙草を取り出しかけた所で敷地内は禁煙だったと思い出し懐にしまい込む。先日うっかり吸ってしまって師長さんに怒られたばかりなのだ。その時の事を思い出してくつくつと笑ってしまった。
煙草を吸うのを諦め、町の風景を眺める。噂に名高い白い町。”童話の雪国の様に地面も草木も真っ白で、この世とは思えない程美しい町”。日が暮れて洋灯に照らされたその街並みは幻想的、という一言に尽きる。生まれ故郷の壮麗さとはまた異なる、美しい、美しいフレバンス。
そして、その美しい町の穏やか夜にそぐわない客人たち。
「諜報員の花は戦闘じゃねえだろうに。──良い夜だなあ、サイファーポール」
目の前に立つ黒衣の人間に対してそう呼びかけた。
「何のつもりだ、ドンキホーテ・ロシナンテ少将」
「何のって、あんた方の出迎えだが?」
ロシナンテの態度に黒衣の人間はその口調に少しばかり苛立ちをにじませる。
「世界政府よりフレバンス所轄の海兵には即時退去命令が出ているはずだ。海軍本部所属とはいえあなたも例外ではないだろう、ドンキホーテ・ロシナンテ少将」
黒衣の人間は奇妙な仮面越しに剣呑な眼差しを向ける。
「我々は世界政府の保管庫から盗難されたオペオペの実の奪還を命じられている。そこを通してもらおうか」
その言葉に正義の文字を背負った海兵は不敵に笑ってみせた。
「そんな風を言われて素直に引くわけがねえだろ?」
(頑張れよロー先生。おれも頑張るからよ)