その4

その4

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夜の語らい(side IF)◇◇

『ロー、そっちはどうだ?』

「そんなに変わらないよ。そもそもまだフレバンスを出て3日だろ。今は軍艦で北の海を南下してる。明日には凪の帯に入るってさ」

『そうか。気を付けて行けよ』

「そんなに心配しないでも大丈夫だって」


おやすみ、そう告げて電伝虫を切る。自分が家を空けるのはしょっちゅうだというのに今回ばかりは家族も不安に感じるのか、夜ごとに電伝虫に連絡が来た。国を離れてまださほど時間は経っていないが、疲労を隠し切れない家族の声に早く帰りたいと思ってしまう。でも今はまだ帰れない。あの白い町に帰るのは珀鉛病の治療法を見つけてからだ。

体重を預けるように物見台の柵にもたれかかる。甲板に吹く夜風に、吐く息が白く染まった。空には満天の星、海は黒く染まり海底の様子は見通せない。遠くに夜警の海兵の声をさざめくように感じる。

──父様から、”珀鉛病で初めての死者が出た”と告げられた。

亡くなったのは最初期から白斑の訴えがあった患者のひとり。昔は採掘現場で働いていた事もあるという体力自慢だった爺様だ。気の良い人で、お孫さんの成長を見るのが今の楽しみだと話していたのを覚えている。最後に顔を合わせた時は、昔は日に焼けて小麦色だった肌が見る影もないほど白く染まっていた。昼夜問わず身の置き所のない苦痛に喘ぎ、最期は深く鎮静をかけてそのまま、と。

遺族の同意が取れれば遺体は病理解剖を行うらしい。何か珀鉛病の治療の糸口が見つかれば、と言う父様の声は苦悩に満ちていた。

「親御さんへの電伝虫か?」

ぼんやりと海を眺めていると背後から声がかかる。振り返ると夜闇にも眩しい白いコートを羽織った背の高い金髪の青年がいた。

「ドンキホーテ少将」

「ロシナンテでいいって堅苦しい。ロー先生は軍属ってわけじゃねえしな」

「じゃあロシナンテ、さん」

名を呼ぶとにかり、と笑みを浮かべる。下手くそだが人好きのする笑顔を浮かべる人だと思った。威圧的な長身で目つきが鋭く見た目こそとっつきにくいが、表情を緩めると幾分印象が和らぐ。

どうしたんですかと声をかければおれは煙草休憩だ、と。近頃は艦内が禁煙なので喫煙室か甲板で隠れるように吸っているらしい。あ、しまったこの話副官の奴には内緒な!とおどけたように話す彼に思わず笑ってしまった。一応この人は艦の責任者だろうにちっとも偉ぶった所がない。

──最初は、怖い人かと思った。が、その印象はすぐに覆された。

本人曰く、生来のドジっ子体質らしい。ドジっ子……?と聞いた時には不審に思ったが、ここ数日の間に扉の角に足をぶつけたのが5回、熱いお茶で咽て盛大に噴き出したのが3回、何もない平坦な床で転んだ姿はもう数えきれないほど見た。これでも煙草の火で服を燃やさなくなっただけ成長したんだぜと言われたが、服を燃やすってどんな状況だろうか。

しかもこの人はどうにも気配が薄いのだ。足音どころか衣擦れの音だとかそういった類のものを近寄られても感じない。視線を向けると音もなくすっ転んでる時があって少々心臓に悪い。今も声をかけられるまで全く気付かなかった。れっきとした海軍本部の将校相手に失礼かもしれないが、この人はいつか自分のドジでうっかり死んでしまうんじゃないだろうかという心配さえ覚える。

しかしそんな極端なドジも周りの海兵は当然のものとして受け入れている。初めて転んだ姿を見た時は慌てて駆け寄った自分に対して、周囲のまたやってるよと呑気な空気に面をくらったものだ。転んだ本人もけろっとしたものでいやあ気をつけてたんだけどまたやっちまったと笑うものだからいつの間にかそんなものだと自分も受け入れた。

「あんまり外にいると風邪ひいちまうぞ。医者の先生にわざわざ言う事じゃねえかもしれねえが」

「小さい子供じゃないんだから大丈夫ですよ」

背中を預けるように鉄柵にもたれかかった彼は神妙な顔でそう言った。どう返したものかと言い淀んでいると彼の方から言葉が落ちる。

「国の方で、なんかあったのか?」

「ええ、まあ。…………珀鉛病で、死者が出たそうです」

話すつもりはなかったのに、気づけば口からこぼれていた。自分自身、誰かに話して気持ちの整理をしたかったのかもしれない。

ぽつり、ぽつりとした語りをロシナンテ少将は静かに聞いてくれた。彼は不思議な雰囲気のある人だ。ただ話しているだけで、心が凪いでくるような心地がする。

話し終わると揺らいでいた気持ちはすっかり落ち着いていた。いくら気が急こうと、今は自分にできる事をするしかない。

自分の空気が変わったのを察したのか、彼が少し笑う気配がした。

「ロー先生は立派だな。若いのによく頑張ってる」

「若いって、おれは26ですよ」

若造だと言われたような気がして、少しだけむっとして見上げる。だが、その表情に毒気が抜かれてしまった。

「おれはもう39だからよ、おれみたいなおっさんと比べりゃロー先生は十分若えよ」

本当に柔らかい表情をする人だ。本当に海兵なんだろうかこの人は。

「おれに力になれる事があったら何でも言ってくれよ、ロー先生」

「とりあえずだ、海軍本部までの道案内は任せとけ」

その言葉に改めて、よろしくお願いしますと応えた。


ひらりと手を振って自分を見送るロシナンテ少将に黙礼して船室に戻る。明日には凪の帯、更に数日もすれば海軍本部だ。今の自分にできるのは体調を万全にする事だけで、早く休むに越した事はない。

──ふと、彼が煙草を吸っている姿はよく見るが、不思議とその匂いは染みついていないなと思った。




自室に戻る若医者を見送った後、煙草休憩だと言った青年は煙草ではなく電伝虫を懐から取り出した。ぱちん、と世界が切り替わるように青年を中心に無音の空間が広がる。慣れた手つきで番号を押すと、目当ての先に数コールで繋がった。

お決まりの符丁を口にする。今大丈夫ですか、と確認すれば短く承諾の声。

『────、──』

「ええ、予定通りフレバンスからの出国者と接触しました。彼らと共に一旦そちらへ帰還します。航程に遅れはありません。今のところ、特別に怪しい動きはないかと」

『──。────』

「その可能性は否定できません」

『──────』

「はい。また進展があれば報告します、センゴクさん」

青年は薄く笑みを浮かべてそう答えた。




珀鉛病に関する研究(side Real)◆◇

彼が出て行った後、しばらくして数人の船員が救護室へやってきた。がやがやとした空気に少しばかり面食らう。

「お兄さん聞いたよ、しばらくうちの船に滞在するんだってね!」

「船長の親戚なんだって?船長に間違えられて海賊に襲われるなんてとんだ災難だったな」

「うわ本当にキャプテンそっくり!あ、ごはん何か苦手なものある?お腹減ってるでしょ作るから」

和気藹々とした雰囲気にここは海賊船だったよな、と疑問を覚える。ただその会話から彼が自分を親戚という扱いにしたのは理解した。別世界の自分と説明するよりは余程信じられる言い訳だ。

用意されるままに食事をいただいてしまった。消化に良いものをという事で用意されたのはおにぎりとスープで、おにぎりの具材は鮭とおかかだった。

なお、怪我痛くない?キャプテンとはどういう関係なの?用事って何の用事?と食事中も質問攻めにあった。正直騒がしさに圧倒されたが、会話をしていて船員たちから彼への深い敬愛を感じた。信頼、と言い換えてもいいかもしれない。見ず知らずの自分を船長が受け入れたから、という一点だけで歓待してくれている。

ありがたい事だと、純粋にそう思った。



「何を騒いでる」

食後しばらくして。船長と似た客人が珍しいと、入れ代わり立ち代わりやってくる船員たちと当たり障りのない会話をしていた時に室内に低い声が響く。入り口の方を見ると数冊の本を手にした彼が立っていた。自分よりも早く気づいた船員たちがあ、船長ー!/キャプテンー!と黄色い声を上げる。

お前ら散れと船員を雑に追い出した彼は持っていた本を卓上に広げる。背後ではキャプテンぞんざいー!おれらにぞんざいー!とブーイングが上がっていたが、彼は特に気にした様子もなく話し始めた。

「珀鉛病の件だが」




◆◆

「端的に言えば、珀鉛病は珀鉛の体内貯留によって引き起こされる中毒症状だ」


いくつかの書籍を広げた彼は珀鉛病に関する本だ、と言った。時間の経過を示すように色あせた本は何度も読み返されたのか所々に折り目がついている。書き込みをされた頁もあり、その文字からは記入した者の感情が伝わってくるようだった。

「珀鉛は微量であれば人体にとって大した毒じゃねえ。摂取が一定範囲内であれば適切に体外へ排出される。だが、大量に暴露される環境下であれば話は別だ」

内容など全て覚えているとでも言うように彼は本を見る事もなく語り始めた。

「一定量を超えた珀鉛は体内に蓄積されていく。ある程度の個人差はあるが、すぐには症状は出ねえ。何十年もかけて様々な臓器に蓄積した珀鉛は少しずつその機能を不可逆的に障害していく。加齢によるものと思わせる程巧妙にな。気づいた時にはもう手遅れだ。発症後は数週~数年に渡って慢性的な疼痛、悪心、高熱に体力を削られ、最終的には多臓器不全で死に至る」

淡々と語る彼の瞳に、感情の色は見えなかった。

「珀鉛病の性質が悪いのは母親を通じてその胎児にも影響が出る事だ。胎児期から珀鉛に暴露されると諸臓器に蓄積した状態で発育が進んでいく。最初の暴露から数代経た子供は生まれた時から珀鉛に侵されてる。そのせいで発症までのリミットも相応に縮む。まあその影響か経産婦は同世代に比べて珀鉛病の発症が遅い傾向にあったらしい」

彼が無造作に開いた頁にはいくつかの統計データと、白く染まった未成熟児の写真が載っていた。その痛ましさに眉を顰める。目を逸らしたくなるが、これはきっといずれ来る未来、もしくは既に起こっている現実の話だ。

「珀鉛病の好発症状はヘモグロビン形成阻害による貧血と自己免疫系の障害だ。免疫の障害によって起こる症状は多岐に渡るが、その典型が皮膚メラノサイトの部分欠損、つまりはあの白斑だな」

お前の右肩にもあるそれだ、と指され。服越しに自分の右肩が熱を持ったように感じる。医院では今の自分よりも遥かに白斑が広がった患者を見てきた。色素の欠損はそのまま珀鉛病の進行を示す。

これが全身に広がるほどに、その人間の死期が近づく。

「色素の欠落による急速な外見の変化は差別を助長する。こっちじゃ原因不明の病を恐れた周辺国の人間から珀鉛病の患者はホワイトモンスターなんてあだ名で呼ばれてた」

その言葉に、図書館で見た新聞に『怪奇!ホワイトモンスターの恐怖!』と書かれていた事を思い出した。

「確かに、珀鉛病の末期には脳神経系にもその影響が及ぶ。脳症の進行により異常行動が見られる場合もある。だが、最期まで頭が化け物になった患者は誰もいなかったがな」

どっちが化け物だ。ろくでもねえ話だ、と彼は吐き捨てる。

「16年前にフレバンスで珀鉛病が表在化した原因は100年も前に珀鉛産業が本格化して採掘や加工の際に発生した珀鉛の粉塵により暴露量が急激に増加したからだって説が有力だな。国に富をもたらした珀鉛が滅亡の原因になった、って訳だ」

遠くを眺めるようなその瞳は何を見ているのか。

「あの頃も国の研究者たちによってそこまでは判明していた。だが、そこまでわかっても効果的な治療法は見つからなかった」

なぜだかわかるか?、と彼は言葉を切る。ここまでの話から思い至る答えはあったが、到底それを口にする気にはなれなかった。

彼は最初から答えを期待していなかったのか、淡々とした声でその先を口にした。


「原因が珀鉛だとわかっても、珀鉛を体内から除去する方法がなかったからだ。──少なくともあの時のフレバンスにはな」


予想していた通りの言葉に奥歯を嚙みしめた。除去する方法がない、という言葉にこの世界のフレバンスの結末を思う。

”滅亡”の二文字は、あまりに重い。

「今も珀鉛病の治療法は確立されちゃいねえ。何せ世間に珀鉛の有毒性が広まったのは全て終わった後だ。その時にはもう治療薬の開発など行われはしなかった。とうの昔に患者がいなかったからな。患者がいないんじゃいくら治療法を考えようと仮説の域を出ない。無意味な研究だ」

──けれど、無意味だと言い放ったその言葉とは裏腹に、不思議と彼の声音に諦念のようなものは感じなかった。

ふと、彼が持ってきた本の中に1冊のノートがある事に気づく。頁が足されて膨らんだそのノートは隙間なく手書きの文字に埋められていた。彼はもしかして、一人で続けていたのだろうか。その無意味な研究を。

彼の鋭い眼差しが自分を射抜く。明確な意思の宿ったその瞳に息をのんだ。

「だが、今はお前がいる」

「”おれにできる事なら何でもする”んだろう?せいぜい珀鉛病の研究にその身体を役立てろ」

問われるまでもなく、自分の答えはもう決まっていた。




彼の言葉に同意すれば時間が惜しい、追加で検査させろと追い立てられた。慌ただしく検査前処置を受けている最中にふと疑問が浮かぶ。

僅かな時期の差はあれど、珀鉛病の発症に例外はない。では何故彼は生きている?彼も珀鉛病を発症していたはずだ。しかし、彼の肌に白斑は浮かんでいない。この世界で珀鉛病が表在化して16年。もし発症していたならそんな長い期間生きていられるわけがない。

「じゃあ、あなたはどうやって治療法もなしに珀鉛病を克服したんですか?」

「……おれが珀鉛病を治せたのはおれの”能力”に寄るものだ。お前の参考にはならねえよ」

「”能力”……?」

──彼のその言葉が奇妙に頭に引っかかった事をよく覚えている。

疑問の視線を向けるとため息をつかれた。彼の掌に鈍い音を立てて半透明の青い球体が現れる。一瞬の間に展開された薄青の壁が身体を通り抜けた瞬間、あの時と同じひどい圧迫感がした。

どくん、と心臓が強く脈打った。勝手に呼吸が早まる。全身の血が逆流するように嫌な感覚がした。視界が、点滅する。

「おい!?ちっ、一体どうし」

彼の焦ったような声音を遠くに聞きながら、自分の意識はあっけなく闇に呑まれた。

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