その顔が見たかった!
気だるい5月のある日、俺は人生最大の非行を仕出かした。
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俺の家庭環境は最悪だった。
地元でかなり有名な、いわゆる良家の次男坊に生まれた俺は、金銭面では苦労せずに育った。
でも精神的には苦痛しかない環境だった。
親父を夫と見ず《完璧な当主》としか見ない母親、期待に応えられない絶望から家に帰ってこなくなった兄、ただ仕事だけをする使用人たち。
そして重圧の矢に射抜かれ過ぎた、今にも壊れそうな親父。
家に休まる場所はなかった。兄が駄目だったから、期待の目は弟の俺に向けられた。
誰もが親父の後継に相応しくあれと、まだ走っていない俺に期待した。
……正直くっそウザかった。
勝手に期待して、勝手に夢を見る奴らがムカついた。
俺に不相応な荷物を持たせようとする周囲に苛ついた。
それに反発していくうちに、俺の口調は悪くなり、非行もして何度か親が呼び出されたりもした。
母親が泣いても、申し訳ねーなと思う反面知らねーよと思う冷たい心があった。
それくらい俺はもう、家族に対して冷めていたんだと思う。
でも俺は親父のことがまあまあ好きだった。
それは幼い頃、可愛がられた記憶があるからだろう。
幼い俺を膝に載せ、競走者だった頃の話を語って聞かせてくれた記憶。
……親父は、この重圧と一人戦っていたのだろうか。
だから今、こんなに有様なのだろうか。
ただ無であろうとする親父と、映像にいる喝采を浴びて輝く少年はあまりにも違いすぎて、とても不気味だった。
きっと親父の幸せな記憶は競走者の頃にしか無いのだろう。
だから今、支えも何もかもを失った親父は、こうして罅だらけになっているのかもしれない。
そしてある日、遂に親父は限界を迎えた。
突然倒れて病院に搬送された親父は、次目覚めたとき虚ろに笑うしか出来なくなっていた。
命は助かった。でも心は助からなかった。
家は壊れた親父を白い牢屋に閉じ込めた。
そして親父など初めからいなかったかのように、家は普段通りのルーティンを繰り返す。
俺は暇さえあれば親父の見舞いに行った。
幸いまだトレセンに入れる年齢ではない俺は、好き勝手できる時間なんて腐る程あった。
非行を止め、自分の時間すべてを親父に使った。
「父さん。来たよ」
「父さん。今日は暑いな」
「父さん。外の風が気持ちよかったよ。窓開けようか」
「父さん、今年のケンタッキーダービーも凄かったな」
俺が挨拶しても、親父は何も言わない。
ただ虚ろに笑うだけだった。
でも笑ってはくれる。反応を返してくれるだけで、それでいいとした。
死ぬまで親父はここにいるのだろうと思った。親父もそれを受け入れてしまったのだろうと思っていた。
でもそれは違った。漸く刺さっていた矢を抜かれた親父は、その傷を治すのに集中していた。
「父さん、今日はジャパンのレースを見ようよ。今日あっちでアサヒハイっていうGⅠレースが行われるんだってさ」
「……ジャパン?」
入院して初めて、父は言葉らしい言葉を話した。
何故ジャパンに反応したのか分からなかったが、この機会を逃す訳にはいかないと、チャンネルを合わせた。
まだ発走時間ではなかったらしく、パドックで出走者が紹介されていた。
ちょうど映されたのはフジキセキという少年だった。
『1枠1番フジキセキ。一番人気です』
『今日の注目株ですね。前走のもみじステークスをレコード勝ちし、サンデーサイレンストレーナーの指導手腕を見せつけてくれました』
「へぇ、モミジステークスはよく分かんないけど、レコード勝ちなんて凄いなぁ。なぁとうさ……」
親父に話を振ろうと視線を向けた瞬間、俺は驚いた。
あの親父が、虚ろに笑うしか出来なくなったはずの親父が目を見開いてテレビを見ていた……いや、聞いていた。
「……サンデー?」
「知り合い?……あ、そういえば父さんの現役時代のライバルだったな。懐かしい名前聞いたんならそりゃあびっくりも……父さん?なんで泣いてるんだ?」
親父の淀んだ緑眼から、ボロボロと涙が溢れては零れ落ちていた。
初めて見る親父の涙に動揺し、なんと言えばいいのか分からない俺なんか頭の中にないのか、親父は泣きじゃくった。
まるで今の今まで溜めていた分を流すかのように。
「サンデー……会いたい……会いたいよぉ……!
僕、とても辛いよ苦しいんだ!助けて!ここから連れ出してよぉ!」
初めて親父が救いを求めた瞬間だった。
もう壊れた親父を救えるのは、治せるのはサンデーサイレンスという男だけなのだと、馬鹿な俺なりに悟った。
親父は子供のようにわんわん泣きながら、サンデーサイレンスを呼び続ける。
ここから日本はあまりにも離れすぎている。助けを呼んでも、彼に届くはずがない。
ならば、さあ。
「親父」
「サンダー……?」
「ジャパンに行こう。サンデーサイレンスさんのところに逃げよう」
声の届くところまで行けばいい。
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親父を家から連れ出すと決めたはいいものの、子供の俺にできることなんてたかが知れている。
だから俺は手始めに協力者を集めることにした。
それは意外にも多く集まった。
まず俺と同じく、ジャパン移籍キャンペーンに参加する奴ら。
コイツラは親父に憧れていたらしく、「あのイージーゴアさんのお役に立てるなら!」と喜んで手を組んでくれた。
そして昔から家で働いている使用人たち。
老執事からの話で知ったのだが親父は両親、俺からすると祖父母は冷えていたらしく、興味もあまり持たれず、専ら使用人たちが面倒を見ていたそうだ。
「使用人の身分である私達に、当主様の望む救いは出来ません。ですからプレミアムサンダー様、出来ることは最大限しましょう。ですからご当主様……いいえ、ゴア坊っちゃんのことをよろしくお願いします」
そんな感じで大人の協力者を得られたことで、漸く計画の準備に取り掛かれた。
それからは色々大変だった。
母親たちにバレないように、父の転院手続きを行ったり、渡日のためのパスポート作りだったり、もうやることがいっぱいありすぎて、正直曖昧だ。
でもジャパン行きの飛行機に親父を押し込んで、フライトした瞬間の高揚感は覚えている。
追手はいない。この日まで母親たちが気付いている様子もなかった。
後は、飛行機が出発するだけ。
3,2,1,……離陸!
……やった!やってやった!あの家を出し抜いてやったんだ!
機内だがここにいるのは俺と親父とキャンペーン仲間(ご丁寧に今回の計画の協力者しかいない)だけなので、全員で歓声を上げた。
「っしゃオラァ!!ザマァみやがれぇ!!」
「やったなサンダー!」
「祝杯だー!まだ飲めねぇけど!!」
思い思いに叫ぶ中、何も知らない親父はこの空気に当然だが困惑している。
「え、え、サンダー。これはどういう……」
「やったぞ親父!もうこれで俺たちは自由だ!」
「自由ってどういう……ていうかサンダー、僕のこと親父って……」
「んなこたぁ今はいいだろ!ようやっと会えるぞ親父!」
「会える?誰に?」
「親父の愛しのサンデーサイレンスさんにだよ!」
一拍置いて、俺の言葉を理解したらしい親父は顔を真っ赤にさせて悲鳴を上げた。
その有様はもう虚ろでもなんでもない、生きた人間そのものだ。
ああもう!その顔が見たかった!
【悪いな親父!勝手に日記見ちまった!】