その男の名は、:急
夢から覚めたその後にはいつも、地獄がやってくる。
夢のように白く輝き美しく栄えた故郷の、その最期の日。
父様と母様は、医者の話なら聞いてくれる、ローはここに隠れていなさいと言って、おれをクロゼットに押し込んだ。
戸の外で銃声が鳴って、感染者二名"駆除"なんてまるでバケモノ退治でもしたみたいな言葉が聞こえて、暗くて狭いそこから這い出した頃には全てが終わっていた。
父様も母様もシスターも、教会のみんなも殺された。
妹の、ラミのいた病院は炎に包まれ近付くことすら出来なかった。
長い長い一夜の夢を、おれは姉様とお爺様と、コラさんと過ごした。
白い痣が痛むこともない柔らかな空気に満たされた工房は、ずっと浸っていたくなるほど優しく温かだった。
コラさんが面白おかしく語る冒険譚や、時折やってくる麦わら帽子の友だちの話を聞いて、姉様に見守られながらお爺様に医学の勉強を見てもらう。それだけで完成された生活は、まるで失った団欒と愛情をそっくりなぞるようで。
だけど死病から解放されたおれに月みたいな静かな笑顔を向けたコラさんは、夢を、おれの夢を終わらせて。
それで。
目覚めたおれを待っていたのは、人が思いつく限りのおぞましい所業が詰め込まれた血と炎の地獄だった。
今でもたまに、あの地獄の夢を見る。
痣の消えたあの時から、一度も見ない故郷の悪夢の代わりのように。
そうしてぬるい腐臭の中から、背筋を伝い落ちる死の気配と共に目覚めるのだ。
死の存在は、薄く熱を帯びる白い花々の咲き誇る夢の中で、嘘のように遠ざけられていたものだった。血と臓腑に塗れた夜明けの街を、悪夢と見紛うほど。
惨劇の跡を見下ろし、これこそが”おれたち”なのだと告げた男から悪魔を手渡される時になってやっと、おれはかつてこの胸に死を突き付けたのがいったい誰だったのかを思い出した。
馬鹿か、おれは。
初めから知ってただろうが。
おれの手を引く熱い手が、人にたやすく死を与えられるということを。
コラさんはおれに、賞金首を狩るところを一度も見せなかった。いつも留守番をしていたおれは自分が弱いからだと思っていたが、きっとそうじゃなかったんだ。
あれは優しくて寂しいあの人が、おれのために吐いた嘘だった。
おれからただ死という終わりを遠ざけるための、優しく恐ろしい嘘。
療養を名目にコラさんから引き剥がされたおれは、北の海の冷たい風の中で欠けた月を見上げて、嘘に守られた夢の満月を思い出していた。
あの旅でおれを救ったドラムの医者や、いずれ心臓の名を持つ海賊団を結成する仲間たちと出会う、その前の話だ。
船を駆り刺客を蹴散らし同業者を叩き潰していた頃の苛烈さを何処かに置き忘れたかのようなドフラミンゴは、おれがヤーナムの街を空けることにも何も言わなかった。
ドクトリーヌに弟子入りすると言った時も、自分の海賊団を持ちたいと告げた時も、好きなようにやりゃあいいと笑うだけだった。
ただ、それなら旗揚げまでに戦闘力の底上げが要ると、いつものように一人でどこかへ向かっていった。
"現実"のヤーナムの奥深くに、おれたちが過ごしたはずの夢の工房はひっそりと忘れ去られたまま存在していた。という話を、おれは"ほとんど"動かない姉様を抱え武器のいくつかを持ち出してきたドフラミンゴから聞いて知った。狩長なんてものを引き受けたあの人が背負う大剣も、鴉羽を継いだあいつが提げている隕鉄の二枚刃も、その中に残されていたものだった。
ドフラミンゴはその中から、鍔を毛皮に覆われたあの刀を、鬼哭をおれに与えた。
神秘を扱う力が飛びぬけて高いおれに、よく合う得物だろうからと。
怨嗟の残り火を力とする妖刀の師は、コラさんの弟子を名乗るあいつだった。カインハーストの流れを汲む剣技と神秘とを知る者は、おれよりもガキだったあいつの他に誰一人として生き残っちゃいなかった。
あいつも、銃器の扱いをおれに教えたデュラも、それ以上のことは何も伝えようとはしなかった。
おれの使命は獣を狩ることではなく、癒すことだからと言って。
おれが戦闘の訓練に本腰を入れ始めたその頃には、旧市街の人間を含め殆どの罹患者の治療は完了していた。だが、今後行う街の外での調査に役立つだろう狩人の業を、おれはどうしても無理に聞き出そうとは思えなかった。
オドン教会で夜明けを待っていたあいつは、コラさんの狩りを知ったという。
長く温かな一夜の夢で、デュラの名が刻まれた古い墓標を見たことがある。
あの夜の恐ろしさと悍ましさを知るのだろう二人に、狩人でもないおれがその術を求めるのは酷く傲慢なことのように思えた。
「……天竜人」
「フッフッ!そうだ。おまえの大キライな政府を支配する"あの"連中さ」
「あんたは"元"だろ」
「まだ寝ぼけてんのか?ロー、この血に"元"なんてモンは存在しねえ」
ひとつ。
「"神の天敵"?」
「血を腐らせた連中の、ただの御伽噺だ」
「でもあんたらの血はおれたちの…Dの血に強く反応する性質があるみたいだぞ」
「なら、何らか意味はあるのかもしれねえな?」
ふたつ。
「今のコラさんは本当に眷属なのか?」
「さあな」
「悪魔の能力は赤子の夢を苗床として発揮されるものだ。月の狩人として夢に残ったあの人が、こんな規模と期間能力を行使し続けてるのは妙だろ」
「案外本体の性質として確立されているのかもな。"先触れ"だってエーブリエタースからの借りモンだろう?」
みっつ。
「獣性は、"治療"できねえ」
「ああ…ネフェルタリの血を調べたのか」
「知ってたのか、あんたは」
「何故そう思う?おれはただの狩人。そっちはお前ら医療者の専門だ」
探求が一歩進むたびに、降り積もる違和感。
神秘を見つめる瞳を覆い月光を振るう、その背中がひどく遠い。
「ドフィ、頂上戦争でのこと、悪かった。……あんたエースを気に入ってただろ」
「あ?なんだ、ンな事気にしてたのか?構わねえさ」
「そんな訳…」
「それよりだ。お前の首の値が跳ね上がってる。あのガキ共を守りてェなら七武海にでもなることだな」
ああ、まただ。
最初から、あんたには全部分かってるんじゃないのか。
本当はオペオペの力なんて、おれなんてあんたには必要ないんじゃないのか。
絶えない凪でおれたちの街を守るコラさんの眠りを終わらせる気なんて、少しもないんじゃないのか。
そんな言葉を、おれは何度も呑みこんできた。
ディアマンテに、かつての最高幹部だった"2代目コラソン"の話を聞いた。
ヴェルゴには、コラソンの名を持つ前の"ロシナンテ"の有様を。
デュラには、あの夜を終わらせた"月の狩人"の狩りを。
狩人狩りには、弔いと共に歩んだ"鴉羽の狩人"の姿を。
ずっと目を背け続けていたその恐ろしい血の歓喜を知り、それでも積み上げた死に祈ることを選んだ慈悲の在り方を知った。
そして気が付いてしまった。息をするみたいに嘘を吐くあの人の不器用さと寂しさがどこから現れたものだったのか。
ひたすらに狩りと共にあり、誰にも咎められず遺志に満たされる狩人のための夢からあの人を引きずり出すことは、はたしておれ一人の我侭以上の意味を持つだろうか。
コラさん。あんたがどうしておれを助けてくれたかなんて、もうどうでもいいんだ。
病んだ人々を殺し回って地獄を作り上げていたって、おれはあんたを愛してる。
でも、それをあんたに伝えることを、他ならぬあんたは望むのか。
嵐の凪いだ心の中に見つけた戸惑いは、徐々にその影を暗く落としていく。
あの人の影を追って、拾い集めて、バラバラに見えるそれを継ぎ合わせてきた。
この手の中で組み上げられたそれは、ぴったりと隙間なく狩人の姿をしている。
まだ、まだ何か残っているだろうか。
おれの手を引いたいつかのコラさんの顔は、霧に覆われたように霞んでいた。