その男の名は、:序

その男の名は、:序


ドフラミンゴの言葉を借りるなら、そいつはそう、"最悪の体験から生まれる、無類のクソみてェな目つき"の男だった。

名前は知らない。奴の兄からも他の連中からも、ただコラソンとだけ呼ばれる男だ。


出会いは最悪も最悪だった。

訳も分からないうちに頭を掴まれ鉄山に投げ込まれて、おれは危うく3年のリミットを待たずしてあっさりくたばる所だった。

そいつ、コラソンは最高幹部のくせにアジトに籠って書類仕事ばかりしていて、その癖海賊団のメンバーであるはずの子供にも手を上げるイカれた暴力野郎で、しかも組織のボスである兄には咎められないって特典付きのタチの悪い奴だ。

父様も母様も妹も教会のみんなも死んだのに、あんなバカが生きてていいわけねェ。

そんなどうしようもねえ考えが、全てを失ったおれの心に渦巻いていた。

何年も経たずにおれは病で死ぬ。そんなことは分かっていたが、タダで死んでやるつもりもなかった。どうせなら、クズの一人や二人くらいは殺しておこう。

その程度のほんの思いつきで、おれはアジトのソファで独り眠る男の胸を、あいつがいつも提げてるナイフで刺した。

何も信じてないと言った口で故郷の優しい人たちを善悪の天秤にかける、その意味にも気付かないまま。

そしておれは、誰かに"死を与えられる"というその意味を知った。

全身から汗が吹き出し、ぐらぐらと頭が揺れた。真っ逆さまに落ちていくような感覚から立ち直ってやっと、自分が廊下に転がっていることに気が付いた。コラソンのいた部屋からは離れたそこに、どうやって逃げてきたのかも定かじゃなかった。

あいつはわざと、おれを見逃した。じゃなきゃおれはあのまま、頭を潰されそうな力で掴まれたまま、内臓を抉り出されて死んでいた。

ガタガタと震える手で、ぷつりと血の滲んだ腹を押さえる。相当深く突き刺したはずのナイフは目にも止まらぬ速さで引き抜かれ、頭の痛みを覚えた時には切っ先が腹に突き当てられていた。

みんなみんな殺された。生き残ったおれは、死体の山に隠れて国境を越えた。

死ぬのなんて怖くねェ。だってみんなと同じになるだけだ。

それがおれの本音だった。

そのはずだった。

血の気の失せた足を無理やり動かし、壁を伝ってなんとか立ち上がる。

死という"終わり"を目前に突き付けられたその日、おれは自分が本当に生きていて、そして誰かに生かされているのだと、そう思い知ったんだ。


コラソンは結局、おれに刺されたことをドフラミンゴに報告しなかった。

喋れないらしいということはベビー5に聞いて知っていたが、やろうと思えばいくらでも伝えようはあるはずだ。

困惑をよそに、ドンキホーテ海賊団は何事もなくおれを迎え入れた。

海賊団の船員になったはずなのに、ドフラミンゴがおれに教えたのは医者としての知識ばかりだった。死ぬまでに全部ブッ壊したいと言ったことなんて、ちっとも覚えてねえみたいに。戦闘に関しちゃあいつが満足できるレベルの最低限の護身術を叩き込まれるくらいで、着々と強くなっていくバッファローやベビー5にちょっと悔しい思いもした。

でも、時間のかかる医学の教育をするってことは、使い捨ての駒じゃなく仲間としておれを育てているという意味でもあった。ドフラミンゴはいつでも、おれが死ぬなんて思っていないように振る舞った。他の連中だって、それに倣った。

珀鉛病には必ず治療法がある。

父様が信じたそれを、まだ信じてくれる人がいる。その事実は、壊れたはずのおれの心をほんの少しずつ癒していった。

海賊団に入って2年近くが経つ頃には、おれはオペオペの実の存在と、ドフラミンゴの病の話を聞かされていた。精神を変質させ果てには死に至らしめるらしいその病が、弟であるコラソンの血にも宿っているということも。

おれは初め、コラソンの奴にもその話を教えて手伝わせりゃいいのにと思っていた。けれど、自分や周りのことを考える余裕ができるにつれて、薄っすらその理由に思い当たるようにもなっていった。

あいつが世界をブッ壊そうとしない理由は、命のタイムリミットが見えてないというたったそれだけにかかっているかもしれないのだ。

おれは自分の死期を知り、その間にたくさん殺して全部ブッ壊したいと思っていた。

ドフラミンゴは死に追われ、残された時間の全てを使い果たすように生きていた。

ならあいつは、あのクソみてェな目つきのあの男は、もしかするとそう遠くないうちに狂って死ぬと知ったなら、一体何を為そうと望むだろう。

アジトから弟を出さないなんて軟禁じみた真似をするドフラミンゴの姿におれは、かつて故郷で妹に吐いた優しく恐ろしい嘘を思い出していた。


おい、おかしいだろ。

こいつついにトチ狂ったか?

どことも分からない海の上で小舟に揺られながら、おれは声の限りにドフラミンゴを呼んだ。必死に暴れても、教えられた縄抜けを試してみても、何をどうやっても拘束が緩んだ様子すらない。誘拐だぞ、こんなの。

ボスに話を通してすらいなかったコラソンを、ドフラミンゴが咎めることはやはりなかった。ずっとアジトに閉じ込めていたはずなのに、おれを連れて味方もいない加盟国を周れなんて言い出して、定時連絡だけをおれに任せて通話を切りやがった。

片手で受話器を持ち、もう片手でおれの口を押えていたコラソンは、メモの一つも取らずに指令を聞き、その内容を漏らさず整理して海図に書き込んでいた。

それから、おれとコラソンの奇妙な旅が始まった。

コラソンのあまりに唐突な行動に、理由らしい理由は見当たらなかった。

おれの命を拾った2年前から、そもそもおれたちには接点らしい接点すらない。

ただ分かるのは、コラソンがおれを警戒していること、そしてどれだけ拒絶されようが、病院を連れまわすのを止める気がないということだ。

コラソンは清々しいほど淡々と、ドフラミンゴが目星を付けた病院を渡り歩いた。どんなに酷い言葉を投げかけられようが、挙句武器まで持ち出されて追いかけ回されようが、ずっとあのゾッとするほど凪いだ目で人間を見下ろしていた。

義務のように守られ庇われながらおれは、こいつはつまる所最初から、誰一人信じるどころか、期待してすらいないのだとやっと理解した。

加盟国の有名な医者だろうが海賊団の仲間だろうが、きっと血の繋がった家族であるはずのドフラミンゴだって変わりなく。

ああそうか、病を謗られ憤るおれは、まだ人間に期待しているんだ。

おれを珀鉛病で死んだりしねえと信じてくれた、ドフラミンゴたちを信じてるんだ。

そう思い至っても、悪い気はしなかった。

ただ、ほんの少しだけ、ひたすらおれを連れ回している男のことを考えた。

生きてる家族がいて最高幹部って居場所があっても絶望から抜け出せないこいつは、何もかもを失ったあの頃のおれと同じように苦しんでいるんだろうか。

自分が地獄の底にいることすら、気付けなくなった心で。


両手の上に、熱い雫がぽたぽたと落ちてくる。

大したことない火傷だからと眠気に負けて放っていたおれの手に薬を塗って包帯を巻きながら、コラソンは涙を零していた。

別にそんな、驚くようなことをしてやったわけじゃなかった。

珍しく賞金首に深手を負わされたコラソンに、その場ですぐに出来るような簡単な治療をしてやっただけだ。ドフラミンゴが居たなら、一瞬で傷口を能力で縫って処置も終わっていただろう。

一応同じ海賊団の仲間なのだし、腹立たしいことにこいつの方が実力も立場もずっと上なのだから、手当をするなんて当たり前だ。目下勉強中のおれが組織に貢献できることなんて、このくらいしかないのだから。

それを抜きにしたって、2年前に命を拾われ、曲がりなりにもおれの病気を治す方法を探して旅を続けるこいつに、借りを作ったまま死なれるのは気に食わなかった。

おれに地獄から這い上がる時間を寄越しておいて、クソみたいな目つきのまま死のうなんて許してやるもんか。

それに父様が生きていたら、嫌な奴だからって治さないなんてことはないだろうと、頭のどこかに浮かんだから。

寝たふりを続けるおれの手を、コラソンの熱い指がなぞる。

もうちょっとでも力を込めたら、壊れてしまうとでも思ってるみたいに。

「…ありがとうな」

聞き取るのが難しいくらい掠れた声は、涙で湿って震えていた。






Report Page