[その他]は目を潰す

[その他]は目を潰す


 つう、と、背筋を汗がつたうのがわかった。ばっと顔をそらして、思わず口を押さえ、呼吸すら憚られた。見てはいけないものを、見たような気がした。

 完全な死角だと確認してから、そっと盗み見る。目を逸らしたくて、けれどどうしようもなく惹きつけられて、ばくばくとなる心臓をごまかすことはできそうになかった。

 桜の木の下、薄紅色の花が散る中でその人はそこにいた。木でできたベンチに腰かけ、荷物を隣に置いて、どこを見ているのかわからない瞳で、やはりどこかを見つめていた。

 膝においてある弁当箱が、食事中ということを示していた。不躾と知りつつ、その場から離れるという選択肢は頭からすっぽ抜けていた。細く、長い指が箸を持つ。顔色と同様、白すぎてむしろ不健康に見える色。持ち方は綺麗だった。家で厳しく躾けられたのだろうか、写真を撮って売り出せば即座に講師として使えるだろうと思うほどで、所作の一つひとつが目を引いた。

 箸が米を掴んで、薄く開いた口に運ぶ。ちろりと覗いた赤い舌にどくりと一際強く心臓が跳ねて、同時にこんな場所は他の人間と変わらないのか、と思った。してはいけないことをしている。見てはいけないものを見ている。そういう思いは強くなった。注連縄を千切るような、禁忌を犯しているという感覚がなくならない。

 ていねいに食事をすすめていく。迷うような様子もなく箸は動く。赤い舌が、血色の悪い唇が、白い歯が、そのたびに見えて、そのたびに心臓は大きく跳ねる。まだ冷え込む時期だというのに、体温がすっかりあがってしまっていた。

 蛇のような赤い舌がちろちろと誘うように動く。くちびるがなぶるように形を変える。すとんと色をなくした歯が、むしろ鮮やかに浮き出て視線を奪う。

 性的な雰囲気などかけらもなかった。ならばそれを見出した自分の責任だ。罪だ。業だ。ただ食事をしているだけなのに、セックスなどよりもよほど、淫靡で、なまめかしくて、背徳的ですらあって、アスモデウスに魂を捕らえられたようだった。いつでも背を伸ばし、舞台のためだけに生きているような人を穢してしまったような気がして死にたくなった。

 食べることは生きることだと、どこかで聞いた。そのせいか。

 生と死のあわいに生きるような人が、明確に生へと天秤を傾ける行為が、ひどくおぞましく思われた。同時にひどく美しくて、喉仏にかみつく、素肌をなぞる、肢体をくみしく。そういった妄想が頭を離れない。その想像だけで頭が沸騰しそうなほどだった。綱渡りで、危うげなく、愉しげに、命を投げ出しているようでもあった。

 同時に、自分があのひとの食事姿を見たことがないことを思い出した。かみさまのように思われても、悪魔のように思われても、人間のはず、なのに。改めて思わなくては、人間だなんてとても思えなかったけれど。けれど、納得した。こんなようすを見て正気でいられるわけがない。本能的に避けていたのだ。きっと、ここに通う全員が。

 こんな感覚は初めてだ。そういう意図を込めた演技も舞踏も、こんな妄想を呼び起こしはしなかった。そんなものよりもよほど、見てはいけないものを見たような気にさせた。整った顔はしかし、主役と言い切るには華がたりない。それでも彼が主役をもらうことは不動であって、その理由はわかりきっていた。理解している、と、今の今まで思っていた。けれど、理由の1パーセントも理解できてはいなかったのでは、とこの光景を見て思い直す。こんな側面は知らなかった。こんな感情を呼び覚ますとは知らなかった。今までなにを見ていたのだろう?

 自分などとは比べ物にならないほど上手いことを知っている。比べることすら烏滸がましいほど、技術の差は残酷なまでに隔絶している。技術だけじゃない。自分にはあのような確固たる芯はない。人に影響を与えるような心は持たない。あれほどに底知れぬ「自分」など持っていない。一片を見せるだけで震え上がるほど広大な自身をどうすれば持てるかなんて見当もつかない。同じことをしたってすぐに涸れ果て見向きもされなくなるだろう。臆せず曝け出せるのは絶大な自信があるからだ。この程度で俺は尽きないとそのすべてで示しているからだ。海のように、空のように、果てがない。民衆がこぞって褒めそやかすのも当然だ。

 その人が舞台上で振舞う姿とは全然違った。どちらかが本物、ではなくどちらも素なのだろう。なにを演じても自然体で、最初からそういう人間であったと思わされるのが彼だった。だから、ただ自分がこの側面を読み取ることができなかっただけのこと。ペアダンスで自身とパートナーを浮かび上がらせることができるのに、男が演じていようとそれを女と思わせることができるのに、違和感なく男と女を変えられるのに、気がつかなかった自分が愚かだっただけのこと。

 

 ああ、あれは人間ではない。

 あんなものが、人間であっていいはずがない。

 だから、俺は悪くない。

 あれに「女」を見出したのも、滾る妄想を走らせたのも、死を望んでしまったのも、

 ぜんぶ、俺は悪くない。

 


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