せめて、微睡みの間だけは
シャボンディ諸島から逃げ延びても、海軍の追手が途切れることはなかった。
170の加盟国によって構成される世界政府の情報網は広く、根深い。
一時姿をくらませようとも、天竜人によって尻に火をつけられた海軍たちはあっという間に二人を見つけたのだ。
半ば漂着したようにたどり着いた小島。
ルフィとウタは海兵たちを撒くために、その中の森林に逃げ込んだのだった。
北から西へ、そこから南へ、右へ左へ。
既に雨は止んでいたが、葉っぱをかき分けるごとに水滴は飛んでくる。
最早、方向感覚が分からなくなるほど走り続けた。
壁と見間違えるほどの大樹にたどり着いた二人は、そこで足を止める。
海兵の足音は聞こえない。どうやら、こちらを見失ってくれたらしい。
安堵するウタであったが、火照っていた体から熱が引いてくるとあることに気が付いた。
さっきよりも温度が低くなっている。
だが風は感じない。無風と言っていい状態だ。
これが示すこの後の気象現象は一つ。
「ルフィッ、ちょっと天気が不味いかも……! 霧が出そう!」
「霧!?」
「下手に動いたら、余計に位置が分かんなくなって遭難するかもっ」
自分の位置が分からないということは、当然敵の位置も分からなくなる。
最悪の場合、霧の中でいきなり海軍と鉢合わせすることも有り得るだろう。
無暗に動けば状況が悪化しかねない。
ルフィとウタはここで足を止めることになった。
(でもこんな所じゃ、そのうち海兵が来る……!)
霧の中でも電伝虫がある海軍は捜索を止めないに違いない。
見つかるリスクにウタが焦っていると、ルフィが何やら身の丈程の木の根を叩き始めた。
「ルフィ?」
「……ここ、クマが冬眠するところみてーな空洞があんな」
「……!」
落ち葉まみれの根を掘り返す。
すると、時間をかけずに空洞が姿を見せた。
「これなら、一目見ただけじゃ気付かない!」
「霧がなくなるまで、ここで隠れてよう」
滑り台を滑るように中に入る。
木の根の下にできた空洞は、意外と広く。
ちょっとした小部屋程度にはスペースがあった。
「後は入り口を隠すだけ……っ!?」
空洞内を見回していたウタは気が付いた。
入り口から微かに入る光。
それに照らされて浮かび上がる白い影に。
「人の、骸骨……!?」
格好を見るに海賊だったらしい。
息絶えてかなりの時間が経過しているらしき、人の成れの果てが眠っていた。
その胸には錆び付いた銀の刃が輝いていて……
「悪ィな。ちょっと狭くなるけど、ここで隠れさせてくれ」
骸骨に謝ると、ルフィは腕を伸ばして入り口を隠した。
たちまち光は途絶え、骸骨の姿は見えなくなる。
「ウタ、こっちこい。暗いからなんも見えねぇ」
「う、うん」
ルフィの声がする方に手を伸ばしながら向かう。
恐る恐る進んでいると、指先がルフィの体にぶつかった。
すると、たちまちルフィは暗闇でウタの体を抱き留め、倒れるように壁にもたれかかった。
「きゃ……!?」
暗闇の中で急に感じたルフィの体にウタは小さく声を上げる。
そのままの体勢で地面に腰かけることになったウタは、暫く静寂の中で過ごすことになる。
今は海兵から逃げている身だ。
無駄話をして見つかるわけにはいかない。
土の臭いがする空洞で。
光が全くないこの闇は、夜空とは全く違う。
言いようもない不安が掻き立てられる。
外界の変化を感知できないことで、自然とウタの意識は直前に見えたものに縛られた。
(あの骸骨、服がボロボロだった。まるで何かから命からがら逃げたみたいに)
海兵か、他の海賊か、はたまたこの島の猛獣か。
分かっているのは彼もまた、追われる立場だったのだろう。
そして、その果てにあの姿を晒した。
(胸に突き立てられたナイフ……骸骨は柄を両手で持っていた)
抜こうとしたわけではない。
あれはきっと、自分で……
重なる。
あの骸骨と自分たちが重なる。
逃避の果てに、現実の残酷さに耐えられなくなったのが彼だ。
自分たちの先人が辿った路の終着点がここなのだ。
ウタの視線が動く。
真っ暗で、何も見えないはずなのに。
あのナイフの位置はよく分かった。
暗黒の中で瞬いた鈍色の光がウタを誘う。
引力がそこにはあるのかもしれない。
逃げてもいいんだと、誰かが囁く。
甘い誘惑。
「——」
無意識のうちに伸びる手。
乾いた唇が自然と開き、掠れた吐息を出した時。
ルフィはウタの腕を掴んだ。
「ウタ」
「……ぁ」
我に返り、ナイフから手を遠ざける。
じっとりと嫌な汗が流れた。
今、ウタがやろうとしたことは裏切りだ。
全てを捨てて、自分を守ってくれた幼馴染への。
最悪の裏切りだった。
「る、ルフィ……私……」
「……寝るか!」
「……え?」
「歌いすぎて疲れてんだろ、いっぺん寝ろ!」
ルフィがウタの頭を優しく自分の胸に押し付ける。
心臓が熱い。鼓動が耳を支配して、誘惑の声を忘れさせた。
「思い切り寝て、肉とパンケーキ食って、歌って、勝負して、また寝て……それでも死にたかったら、仕方ない。俺も死んでやる」
意識が遠のいていく。
瞼がしっとりと重くなって、ルフィの声を聞くたびにそれに抗う気を失っていった。
「だから今は眠れ」
その言葉をきっかけに。
ウタの視界は閉じられた。
闇の中、微かにウタの寝息が響く。
コートを布団代わりにかけてやり、ルフィはウタの鼻先をツンと突いた。
「今日は夢の中じゃねーな」
ウタは傍目からみても心身共に消耗していた。
ウタワールドを形成する余裕もなく、意識が落ちてしまっているだろう。
光など一切ない空洞だが。
ルフィにはウタの顔がはっきりと見える。
その表情は、ただひたすらに穏やかなのだろう。
今、この瞬間だけは、ウタはあらゆる苦悩から解放されている。
それでいい。
ウタは現実で十分苦しんでいるから。
せめて微睡みの中では全てを忘れてもいいはずだ。
「……」
ルフィが上を見上げる。
見聞色に反応があった。
どうやら海兵たちがこの近くに来ているらしい。
「……来たら、ぶっとばす」
入り口に向かって拳を構える。
ピストルよりも強いその拳は、言葉を違えることなく、歌姫の眠りを妨げる愚か者に鉄槌を下すだろう。
やがて、幾つかの足音が聞こえてきた。
木の葉を踏み荒らし、ルフィとウタを探している。
「……いたか?」
「いや……そっちは……」
「……足跡……」
声は途切れ途切れ。
だが、どうやら海兵たちは二人を見失ったままらしい。
暫く木の傍をうろついていたが、やがて足音は去っていった。
もう大丈夫だ。
「……んっ」
ウタが小さく声を漏らす。
その意識は水面から浮上するように覚醒した。
「……おはよ、ルフィ」
「……おう」
声を聞いただけで、鈍色の誘惑が消えたことが分かった。
さっぱりとした、聞き心地のいい声だ。
「ねぇ、ルフィ」
「ん? なんだ?」
「……ぇぃっ」
ルフィの首元に両腕を回したウタは、そのまま重心を動かして二人の位置を入れ替えた。
浮遊感を覚えるルフィは思わず声を上げる。
「……おぉっ?」
「次、ルフィがねるばん」
そう言ってルフィを包む。
ウタの鼓動が耳にぎゅっと押し付けられた。
「おれはいいぞ?」
「ルフィがねるの」
舌足らずな口調。
もしかしたら、まだ寝ぼけているのだろうか。
単調なリズムのウタの言葉を聞いていると、ルフィの意識が徐々に遠くなってきた。
「……じゃあ、そうする」
「おやすみ、ルフィ」
真っ暗な世界で、ウタを感じ、ウタの音に包まれる。
口元に弧を描き、ルフィもまた微睡みに身を委ねるのだった。