ごめんねスレッタ・マーキュリー ─プロローグ─
カツカツカツ…
アスティカシア学園敷地内。夜も深まった暗闇の中に、小さな靴音が響いていく。
少し急いたような様子で歩く赤毛の少女は、今学園内で何かと話題になっている水星からの転校生、スレッタ・マーキュリーだ。
大体の生徒は寮に戻り、明日の授業へ向けて体を休めている時間。そんな中、住居エリアから離れた道を歩く少女の姿は少々奇異に映るかもしれなかった。
防犯の関係上、あまり夜間に出歩くことが推奨されていないこの学園では、夜時間に切り替わるとぐっと人通りが減る。この先は人工的に作られた小規模な森しかなく、強いて言えばごく小さな散歩道と、体を休めるためのベンチがいくつかある程度の場所だ。あたりに人影はまったくなかった。
だが迷いなく足を進めていく少女の顔は明るい。弾むような足取りで目的地へと急いでいく。
もうすぐ森の端に届く辺りで少女の顔は更に華やいだ。森へと入る手前のベンチで彼女を待っている人影がいたからだ。
「…え、エラン、さんっ」
暗闇に少女の上ずった声が響く。待ち人の名はエラン・ケレス。つい先日スレッタと決闘騒ぎを起こした御三家のうちの一角、ペイル社に所属する少年だ。
少女の声掛けに少年は一瞬目をつむり、次いでベンチから静かに立ち上がると少女に相対した。
照明を背にする少年の体に大きく影が掛かる。背の高い少女よりさらに大きな少年の姿はともすれば威圧感を与えるところだが、少女はまったく怖くなかった。少年がとても優しいことを知っているからだ。
「…ごめんねスレッタ・マーキュリー」
「い、いえ、突然でちょっとビックリしましたが、全然っ…構いませんので!」
お風呂に入った後、寝巻に着替えて髪を乾かしていたところに突然の連絡が来て、大いに慌てたことは秘密である。同室の少女たちに冷やかされながら急いで支度してここまで来たことも。
「それで、あの…」
何だか気恥ずかしくて視線を下に向けると、先ほどまで少年が座っていたベンチの陰に大きな荷物が置いてあることに気が付いた。
旅行用にでも使うような頑丈そうなバッグだ。いつも身軽な彼にしては珍しいことだな、とぼんやりと少女は思う。
「明日の外出だけど」
「は、はいっ」
彼の言葉に急いで顔を上げる。明日は2人が約束したお出かけの日───少女の『やりたいことリスト』のデートの項目を埋める日だ。
決闘が終わった後、遠慮がちにお出かけをしたいと申し出た少女の言葉に、珍しく微笑んだ少年が頷いてくれたのだった。その明日が、どうしたのだろう。
「行けなくなった」
「………え」
「明日、ペイル社からの呼び出しが僕に来る」
「…そう、…なんですか」
少年のおかしな言い回しに、意気消沈した少女は気づかなかった。目線を落とすと先ほどの荷物が目に入る。あんなに大きな荷物、きっとすぐには学園に帰れないのかもしれない。そう思って、ますます少女は落ち込んでいく。
「そう。それで───」
「…はい」
暫く会えないと言われるのだろう。だってあんなに大きな、まるで人ひとり入れそうな荷物を持っているのだ。どれくらいかかるのだろう、一週間くらいだろうか。
「ぼくは殺される」
「───え」
言われた言葉が理解できなくて、少女はもう一度顔を上げた。考え事をしていて、よく聞いていなかった。なにを考えていたんだったか。そうだ、荷物が…。
「君も死ぬ。近い将来に殺される」
「───」
人ひとり入れるくらい、大きな…。
「だから、スレッタ・マーキュリー」
「───」
「僕と一緒に、ここで死んでくれ」
その言葉を最後に、スレッタの意識は暗転した。