ごめんねスレッタ・マーキュリー─長い休息の始まり─

ごめんねスレッタ・マーキュリー─長い休息の始まり─





 エラン・ケレスは記憶にない故郷の景色を、もう二度と忘れる事のないようにと丘の上から見下ろしていた。

 プラムをもいでからも暫く2人は歩き回り、少し足が痛くなった頃に一休みをする。ちょうど景色の良さそうな丘を見つけたので、そちらへ移動して腰を下ろした。

 肩が触れるほど近くにスレッタ・マーキュリーが座り、ごそごそと荷物を漁っている。

「エランさん、お魚の缶詰、開けていいですか?」

「いいけど、この近くにはゴミ箱はないよ」

「きちんと洗って持って帰るから、平気です」

 近くに小さな小川があるので、その水を使うつもりなのだろう。井戸の水はまだ湧いているようだが、そちらはすでに水汲み用の道具が朽ちているので使えない。

 スレッタは薄く切った黒パンに缶詰の中身と塩ゆでしたジャガイモを乗せると、まずはエランに渡してきた。

「はい、エランさん」

「ありがとう」

「いいえ。何だかピクニックみたいで、楽しいですね」

 それは外で食べる時のスレッタの口癖のようなものだった。彼女はいつも楽しそうに食事をする。

 エランに渡したものと同じものを作ると、スレッタはいつもの挨拶をしてから大きく口を開けてぱくりと食べた。

 美味しそうに笑う彼女を見届けてから、エランも口を付ける。

 すぐに酸味の利いた黒パンと塩気の利いた魚の味が舌に刺さるが、後から優しい味付けのジャガイモが和らげてくれる。ここ最近何度か食べた定番の軽食なのに、今日はやけに美味しい気がした。

 あまり大きな口を開けるのが得意でないエランは、少しずつ小さく齧っていく。

 …そういえば、学園では食事をしても美味しいとは思わなかったな。

 唐突にエランは思った。

 まだ数週間しか経っていないのに、色々な意味で随分と遠いところまで来た。あの頃は食事の内容も制限されていて、自室でもそもそとひとりで食べていたのだった。

「美味しいですね、エランさん」

「───」

 隣に彼女が居てくれるから、特別に美味しいと思えるのだろう。

「そうだね。とっても美味しい」

 2人でデザートにプラムを1つずつ食べて、少しの間ゆっくりと過ごした。


 躊躇するスレッタを尻目に、エランはすっきりとした心持ちで先に行こうと声を掛けた。

 途中で墓地を見つけたスレッタが近くに咲いていた花を供えてくれたせいもある。いくつかあった墓にエランの関係者がいたのかは覚えていないが、記憶の中の人へのお別れが出来た気がした。

「あの、エランさん。この辺りに住むことは考えないんですか?」

 スレッタの質問に首を振る。

「この場所はペイルに補足される恐れがある。少しの間ならともかく、長い滞在はしない方がいいだろうね」

 この辺りの治安はそれなりに安定しているが、エランの生家があった場所にはペイルの追手がくるかもしれない。早々に離れて、別の場所に拠点を構えたほうがいい。

 エランの言葉に残念そうにすると、スレッタは心持ちしょんぼりしながら付いてきた。

「どうしてそんなに残念そうなの?」

「…プラムの木、大きいから持っていけないと思って」

 予想していない答えに、エランはぱちりと目を瞬いた。…そんなにも、プラムが気に入ったのだろうか?

「…プラムなら、店でも売ってると思うよ」

「ち、違います、あのプラムがいいんです!」

 首をかしげると、スレッタは強く言葉を重ねた。

「あの木は、なんだかエランさんの思い入れがあるようだから、特別です。うぅ…手のひらくらいの大きさだったら、持っていけるのに…」

「………」

 悔しそうなスレッタを尻目に、端末を取り出して調べ物をする。目当ての情報を見つけたのでしばらく読み込んでみた。

「もう、エランさん。無視しないでください」

 袖をつかんでクイクイと引っ張って来る様子に、くすりと笑う。

「プラムの木そのものは持っていけないけど、こういうのはどうかな?」

 そのページには、プラムの種の発芽方法について書かれていた。湿らせた布や土で保管して、冷蔵庫に入れてから植えるのだ。又は時間がかかるが、直接土に植えてもいいかもしれない。

「あの木は多分挿し木はしてないと思う。だからこの種から育った実も、味はそんなに変わらないと思うよ」

「種…これが木に育つんですか?……すごい」

「絶対とは言えないと思うけど。いくつかの種、持って行く?」

「はい」

 先ほど食べた種を拾って、小川で洗って綺麗にする。少し荷物は重くなるが、ファスナー付の保存袋に湿った砂と一緒に入れた。

「じゃあ行こうか」

「はい!」

 今度はスレッタも異論はないようだ。ニコニコと笑顔になりながら、エランの手を握って来る。

 最後に振り返ってもう一度村を見つめる。人も家畜もいない。唯一どこからか飛んできた鳥だけが羽を休めている静かな廃村だ。

 その姿を穏やかに目に焼き付けると、エランは来た道を戻っていった。


 当初は決まっていなかったルートだが、このまま南へ行って東方面に抜けることにした。

 いくつかの理由はあるが、決め手はスレッタがあの日から果物を食べたがることだった。生食品の類を好んでいるのは知っているが、明らかにあの廃村の出来事から頻度が増えた。

 果物なら、寒冷地ではなく南の方が種類も量も豊富になる。更に東方面に行けば治安もよくなる。

 途中は危険な地域もあるが、そちらは飛行機で越えてしまえばいい。

 スレッタも反対していない。むしろエランの話を聞いて楽しみにしているくらいだ。

 エランは彼女の笑顔を見ながら、自身も楽しみにしている事に気が付いた。

 東南方向には、まだ食べた事のないものも多い。それを見て更に笑顔を浮かべるスレッタの姿を想像する。

 彼女に喜んで欲しい。彼女の笑顔が見たい。

 そういう欲があった。

 季節は初夏、まだこの辺りの大地には、涼やかな風が吹いていた。


 南方面へ向かったエラン達は、比較的治安がいい地域から余裕を持って飛行機に乗った。そのまま南東方面へと飛び、治安の悪い地域を一気にスキップする。

 旅の途中で元に戻り始めた髪色と肌色をもう一度染め直し、スレッタにも化粧を施す。

 現地では暑い事が予想されたので、薄手の服を新たに買って荷物に積んでおく。エランも初めて行く土地なので、どれくらいの気温か予想が付かない。

 それでも、スレッタはわくわくと楽しそうにしていた。

 向かう土地には、ペイルの支部などはなかったはずだ。むしろベネリットグループ自体があまり手を出していない貴重な地域だ。

 頭の中で世界地図を展開する。小ゲイブに聞いた情報、端末で調べた情報を照らし合わせる。…大丈夫、まだ安全に過ごせるだろう。

 そこの土地を暫くの間いろいろと見て回り、次に向かう場所を見繕おう。スレッタが気に入れば、家を借りることを考えてもいいかもしれない。

 頭の中でそんな計算を繰り返す。

 エランは珍しく浮ついていて、よく精査をせずに決めてしまった。最近は何故か体調もいいので、まるで重しが取れたように軽い心持ちになっていた。

 後から考えれば、自分らしくなかったと反省できただろう。安易に決めたりせず、もっと慎重に行動することもできたはずだ。

 けれど、その時はそうではなかった。

 結論から言えば、しばらくその土地で過ごすことにはなった。ただし、スレッタが気に入った等のポジティヴな要因ではない。

 ───彼女が、倒れてしまったのだ。


 その土地に降り立った時、あまりの熱気に目が白黒した。ただ気温が暑いだけではなく、湯気を浴びた時のように空気が肌にまとわりついてくる。

 おそらくこれは湿気が高いせいだろう。

 今までは管理されたフロントにいたし、地球に降り立った場所から飛行機に乗るまでの間は、意識していなかったが過ごしやすい気候だった。

 一瞬で失敗したとエランは顔をしかめたが、それでもスレッタは笑顔になった。

「わたしの死んだお父さんも、暑い地域の生まれだったって聞いてます。こんな場所だったのかもしれません」

「それにしたって暑すぎる。ごめんねスカーレット、もう少しよく考えるべきだった」

「わたしは平気です。それより、エランさんの話だと美味しい果物がたくさんあるんでしょう?ちょっとこの辺りを見て回りましょうよ」

「今夜の宿を決めたらね。きちんと空調が整った所にしよう」

 まるで物見遊山のようだが、半分はそのような物だった。しばらくこの土地を楽しんで、また違う場所へ飛べばいい。そう気軽に考えていた。

 スレッタが熱を出したのは、その日の夜の事だった。


「ごめんなさい、えらんさん…」

「謝らないで、むしろ僕の方が悪かったんだ。考えなしに連れ回しすぎた」

 エランとスレッタとでは性差がある。いくら自分が平気だからと、女性の身では耐えられない事もあるだろう。

 恐らく彼女は少し前から無理をしていた。この暑さが最後の一撃となって、一気に表面化してしまったに違いなかった。

 むしろ、熱が出てよかったのだと、そう考えた方がいいのかもしれない。少なくとも、これ以上無理をさせずに済むのだから…。

「……うぅ…」

「………」

 言い訳のように胸の中で言葉を重ねるが、苦しんでいるスレッタの姿を見ると、その言葉もむなしく萎んでいく。

 新しい土地、新しい人、食事、風習、場合によっては言葉まで…。

 移動し続ければすべてが少しずつ変わっていく。それはスレッタへの負担となって重く伸し掛かっていただろう。

 彼女の明るい言葉や笑顔に、甘えてしまっていたのだ。

「ごめんね、スレッタ・マーキュリー…」

 頬を真っ赤にしながら眠るスレッタの姿に、エランは力なく項垂れた。


 その後は、2、3日ほどかけてゆっくりスレッタは回復していった。

 エランは必要な物資を買いに行く以外はずっと彼女のそばに居て、甲斐甲斐しく世話を焼いた。

 今も手袋をしていない手で濡らしたタオルを額に当てている。解熱効果はあまり期待できないが、彼女の苦しみが少しでも和らいでくれたらいい。

「…何だか自分が大病人になった気がします」

「病人だよ、大ではないけれど。後で果物も剥いてあげる」

「えへへ、ここへ来てから美味しいフルーツがいっぱいで、嬉しいです」

「…喜んでもらえて、よかった」

 エランはここに暫く滞在しようと思っていた。外へ行くには暑くて辟易とするけれど、こうやって室内にいる分には快適に過ごせる。

 外へ行く用事はすべてエランが済まし、スレッタには養生してもらったほうがいい。

 少なくとも数週間はこのままがいいだろう。…今までが急ぎすぎだったのだ。

「スレッタ・マーキュリー、ここに暫く住んで体調を整えて、十分に余裕が出来てから違う土地に行こうか」

「しばらくって、どれくらいですか?」

「…うん。1カ月か、2カ月くらいかな。それまでにいっぱい食べて休んで、体力を回復しよう」

「長いですね…」

「今までが急ぎすぎだったんだよ。少しくらいゆっくりしても構わないと思う」

 もう危険地帯は一旦は過ぎ去ったと思っていい。あとは少しずつ土地を転々として、隠れて過ごせばそれでいい。

「あの…お金とか、大丈夫ですか?」

「ん?」

「宿代とか。フルーツもいっぱい買ってくれてるし…」

 確かにこの宿は今まで泊まっていた民宿などとは趣が違っている。きちんとしたエントランスやフロントのある、いわゆるホテルというような場所だった。

 空調のしっかりした場所に泊まろうとここに決めたのだが、今になっては正しい選択だったと言える。部屋から注文して食事を持ってきてもらう事もできるからだ。

 ただスレッタの目からは急に散財しているように見えたのだろう。

 エランは気にしないでいいと口に出そうとして、ふと思いついたことを言ってみた。

「物価が安いから大丈夫。とはいっても豪遊できるほどじゃないから…そうだね、君がよければ練習してみる?」

「練習?」

「土地を転々とする為の練習。節約のために短期で家を借りて、自分でご飯を作って。それに慣れたら、簡単な仕事を見つけたりして。少しずつね」

「………」

「どのみちこの暑さじゃ外にはあまり出ない方がいいと思う。なら逆に、家で長時間過ごすための練習をするには、いい機会じゃないかなと思って」

「………」

「どうかな?」

 エランの言葉に、スレッタは頬を染めてこくんと頷いた。また熱が上がったのかと頬を手のひらで覆うとすると、彼女はぱたぱたと腕を上下して「大丈夫です!」と元気に答えた。


 翌日。スレッタが起きている間に、エランは家を探しに外に出た。彼女には端末を手に持ってもらって、何かあったらすぐに連絡が出来るようにしてもらう。

 本当は彼女も連れてきた方が安全だが、まだ熱が下がったばかりの体に無理はさせたくなかった。

 幸いにして不動産屋ではすぐに手ごろな物件を見繕う事ができた。まずは短期で1カ月。気に入れば1月単位で契約延長もできる。

 必要な家具はそろっているので、荷物を持って身一つで移動すればいい。

 とりあえず実際の物件の確認と契約だけして、引っ越しは少し先延ばしにすることにした。また違う環境に晒してスレッタの体調が悪くなるのは嫌だったのだ。

 お土産に病人でも食べられそうなスープと果物を買って、その日はすぐに宿へと戻った。


 そして1週間後、色々と用意をした2人は新しい住処へと移動していた。

「───うわぁ、ここですか」

「この地域での平均的なアパートだよ。家族向けだけどね」

 今までの宿にほど近い場所。小さい作りだが、いくつかの部屋に分かれたアパートだ。

 必要な物はあらかじめ揃っていて、すぐにでも生活できそうだった。

「とりあえず、細々とした物を買ってくる。君は休んでいて、スレッタ・マーキュリー」

「もう体調は大丈夫ですよ!お部屋のお掃除でもして待ってます」

 掃除用具を目ざとく発見したスレッタが張り切っている。ここ数日はすこぶる体調も良さそうだったので、好きにしてもらっていいだろう。

「早めに帰って来るから。一応連絡がすぐできるように、端末は持っていてね」

「分かりました」

「うん、それじゃあ」

「はい。行ってらっしゃい、エランさん」

 行ってらっしゃい。それはこの場所で単独行動するようになってからよく言われるようになった言葉だ。

 何だか面映ゆくて目を逸らすが、エランはすぐにスレッタの方を向いて、そっと大切なものを返すように返事をした。

「…うん、行ってくる。スレッタ・マーキュリー」

 エランの何でもない言葉に、スレッタは嬉しそうな笑顔で送り出してくれる。

 トラブルはあったが、これでよかったのかもしれない。

 元気になった彼女の姿を見て、エランは前向きに考えることができるようになっていた。

 ───無理をさせた分も労わって、彼女をたくさん休ませてあげよう。


 長い長い休息は、そんな優しい気持ちから始まった。









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