ごめんねスレッタ・マーキュリー─怪物との契約─

ごめんねスレッタ・マーキュリー─怪物との契約─



※シャディク目線です




 シャディク・ゼネリの元へ意外な人物が訪ねてきたのは、まだ朝とも昼ともつかない中途半端な時間帯だった。

 すでに最終学年になり、必要なカリキュラムの多くを納めているシャディクは自由に行動できる時間が多い。その空いた時間の大半を決闘委員会の雑用や私的な(…そう、私的な)用事に使っているシャディクは、その日も委員会のラウンジでこまごまとした雑用を片づけていた。

 開けた空間にひとりでいるのも慣れたもので、むしろ委員会メンバーが授業を受けている間、自分だけで気楽に過ごせるこの時間をシャディクは気に入っていた。

 そんなシャディクの元にメッセージが届いたのは、ちょうど休憩しようと席を立った時のことだった。何の気なしに覗いたシャディクは次の瞬間に目を見張った。

『今から委員会のラウンジに向かう。君に頼みがある』

 差出人の名はエラン・ケレス。

 彼からの連絡も珍しいが、それ以上に珍しい内容にシャディクは己の目を疑う。

 頼み?エランが俺に?

 エラン・ケレスという人物は、よくも悪くも単独で完結している人間だ。

 人に頼ったり頼られたり、そういうものとは無縁に思えたのだが、どういう心境の変化だろう。

 シャディクの頭に水星から来た少女、スレッタ・マーキュリーの顔が浮かぶ。

 彼女が来てから、シャディクの周りの何人かはすっかり人が変わってしまった。

 エランはその代表だろう。先日の決闘騒ぎを思い出し、シャディクは大きなため息をつく。

 きっと要件はスレッタに関係した何かに違いない。

 話の内容はあいにく見当もつかないが、せっかく人慣れしない知り合いが頼ってくれたのだ。胸中は複雑だが、まぁ…出来る限り力にはなってやろう。

「了解…っと」

 返信をするシャディクは気づいていなかった。薄氷の上の平穏が崩れることを。

 混乱の只中へと身を投げ出す自身の姿を、シャディクは想像すらしていなかった。


「ようこそ決闘委員会ラウンジへ」

 訪れた人物におどけたようにシャディクは一礼する。迎い入れたエランは同じ決闘委員会のメンバーだが、この時間にラウンジへ来るのは珍しいことだった。

 シャディクの態度にエランは何も言わず、目だけでラウンジを見廻すとシャディクへと近づいてきた。小脇には小さな荷物を抱えている。

「シャディク・ゼネリ 少しいいかな」

「今ちょうど手が空いてるし、気にしなくていいさ。君からの頼み事は初めてだね、要件はなんだい?」

「…明日スレッタ・マーキュリーと出掛ける約束をしているんだ」

 話し始めたエランに心の中で苦笑する。やはりスレッタ・マーキュリーの事だ。

 誰も彼もがあの水星ちゃんに夢中だな…。

 視界の端で白く長い髪が映った気がするが、シャディクは考えないことにした。

「彼女には色々と迷惑をかけたから、お詫びの品を贈りたいんだけど。…女性が何を喜ぶのか分からなくて」

 エランの話は続いている。

 なんともまぁ学生らしい悩みだとシャディクは呆れてしまう。あの氷の君と呼ばれたエランが見る影もない。いつもの冷静沈着な君はどこへ行ったんだ。

「まぁ座りなよ。ちょうどお茶も用意しようとしてたんだ」

 失望さえ覚えながら、シャディクはエランをソファへと誘った。エランにしては話が長くなりそうだったからだ。そんならしくない所も気に入らないな、とシャディクは思った。

「それで、女性が好む贈り物だっけ?」

「君の方が詳しいと思って」

 確かにエランの言う通り、自分の方が女性の好みは分かるだろう。シャディクの取り巻きは全員女性メンバーで構成されている。

 わざとではなく結果的にそうなっただけなのだが、『女たらし』という評価は色々と使えるので、周りへの弁明はしていない。

 とにもかくにも、今はエランの相談だ。シャディクは手早くアドバイスをし、最終的には彼自身が何を贈るか決めた方がいいだろうと、女性が好きそうな物を売っているサイトを教えてやった。学園直下の店なので、注文さえすればすぐに寮へと届けてくれる。

「ありがとう」

 エランはさっそくそのサイトにアクセスしたようだ。興味深く自分の生徒手帳を見つめている。

 何だか妙に疲れた心地になって、シャディクは少し冷めてしまった紅茶を口に含んだ。

「………」

 ラウンジに沈黙が落ちる。

 エランと一緒にいるとこれくらいの静けさは間々ある事だったので、シャディクは気にせず紅茶を飲み続けた。

「…そういえば」

 エランが口を開く。シャディクは口に付けているカップをそのままに目線を前に向けた。

「最初スレッタ・マーキュリーに贈ろうとしていた物があるんだ」

 エランが傍らに手を伸ばす。そこには、今は珍しい紙袋が置いてあった。

 小脇に抱えていた荷物か。シャディクはここに来た時のエランを思い出しながらカップをソーサーに戻した。

「何となくで買ったんだけど、やはり女性への贈り物としてはどうかと思って。シャディク・ゼネリ、よかったらこれを」

 エランの手が紙袋からある物を取り出す。これまた珍しい物で、クラシカルな日記帳が何冊かと、同じデザインのメモ帳だった。ご丁寧に万年筆も添えてある。

 一部の物好きが欲しがるような嗜好品だ。紙の本を好むエランらしいが、さすがに自分でも女性への贈り物としてどうかと考え直したらしい。

「ありがとう、せっかくだし貰っておくよ」

 多分に社交辞令を混ぜ込みながら礼を言う。使うかどうかは分からないが、一種の友好の証として取っておくのもいいだろう。

 受け取ろうと手を伸ばすと、日記帳はエランの手ごとスイと後ろへと下がっていく。

「?」

 訝しんで顔を上げる。エランがこんな意地悪をするなんて頭の端にもなかったので、ただ純粋に疑問に思う。

 顔を上げた先で、エランはもう片方の手の人差し指を唇の前に当てていた。

 シィ…ッ。

 微かに聞こえる空気を裂く音。シャディクは目を軽く見開き、反射的に唇を閉じた。

「………」

 沈黙を選ぶと、エランはそれで正解だと言うように両手でメモ帳を開く。最初のページに、あらかじめ書いておいたのだろう文字が現れた。

『盗聴されている』

「………」

 盗聴。決闘委員会のラウンジは定期的に点検をさせている。その手の物は、ないはずだが…。

 エランの片手がメモ帳から離れ、もう一度人差し指が立てられる。彼が指さしたのは、いつも付けている耳飾りだった。

 察しがいいシャディクはすぐに気づいた。建物に付けられないなら人に付ける。ならばエランがいる時の決闘委員会での会話はペイル社に筒抜けだったということだろうか。

 顔を強張らせながらも声を出さないシャディクの様子を確認すると、エランは一冊の日記帳を改めて差し出した。

 何か書いてあるのだろうか。あまり音を出さないようにそっと表紙を開く。几帳面な、けれど急いで書いたような文字でびっしりとページが埋められていた。

 ペイル社の内部構造。

 ガンダムについての研究。

 強化人士という存在。

 どれもこれもが告発すれば致命傷になるようなことばかりだ。シャディクは震える手でページを捲ると、すぐに日記帳は白紙のページばかりになった。

 ぺらり、エランの手でメモ帳が捲られる。

『続きは、こちらにすべて書いてある』

 片手には別の日記帳。シャディクの目は釘付けになる。

 ぺらり、メモ帳が更に捲られる。

『取引をしたい シャディク・ゼネリ』

 ぺらり、更にメモ帳が捲られる。

『この情報、君はいくらで買ってくれる?』

 エランが差し出す万年筆をシャディクは受け取る。あまり使い慣れないが、なんとか書けないこともなかった。

 形が崩れた文字がメモ帳に書き込まれていく。

『いくら欲しいんだ』

 その文字を満足そうに見たエランは、更にぺらりとメモ帳を捲った。

『僕は今夜スレッタ・マーキュリーを攫って地球へと逃げる。その為の費用と工作を頼みたい』

 スレッタ・マーキュリーを連れていく?

 シャディクは呆然とメモ帳を見ていた。視界の端に、ちらちらと白く長い髪の残像が映る。

 スレッタ・マーキュリーが、あの少女が、彼女の前から居なくなる…。

「………」

 普段なら何かの罠だと疑うだろう。

 ペイル社はライバル企業で、エラン・ケレスはそのペイル社が擁立した筆頭パイロットで、恐らくはペイル社の重要人物だ。

 けれどシャディクは何も考えられずに、メモ帳からエランの顔へと視線を移した。

 エランはシャディクをじっと見ている。その緑色の目は爛々と燃えているように光っていて、まるで人の目じゃないようだった。

 気付けば魅入られたようにシャディクは頷いていた。


 姫を攫い塔へ閉じ込めようとする怪物と、取引をするために。







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