ごめんねスレッタ・マーキュリー─夜空の先へ─

ごめんねスレッタ・マーキュリー─夜空の先へ─


※少し痛そうな描写があります



 シャディク・ゼネリとの取引を終えると、エラン・ケレスは自室に戻りベッドの上に横たわった。

 おそらくこれから暫くの間はろくに休めなくなる。今のうちに少しでも仮眠を取って体力を温存しておくつもりだった。

 失敗しても成功しても寮の自室で過ごす最後の日だ。エランは目を閉じる前に、ちらりと部屋の隅へ視線を投げかけた。

 以前オリジナルのエラン・ケレスが笑いながら見せてきた映像を思い出す。あの辺りに隠しカメラがあるはずだ。

 当時は苛立ったものだが、今はオリジナルに少し感謝している。おかげであまり変な行動は取らないよう、注意することができる。

 時間にして2、3時間ほど仮眠していると、来客のブザーが鳴った。シャディクの使いだろう。

 部屋の外に出ると、シャディクの側近であるサビーナ・ファルディンが立っていた。

「シャディクからの荷物だ。ちゃんと渡したぞ」

「サビーナ・ファルディン わざわざありがとう。…シャディク・ゼネリによろしく」

「…ああ、またな」

 どこまでシャディクに聞いているのか、サビーナはそっけなく去っていく。代わりに残ったのは頼んでいた荷物だ。

 見ると律儀に服が入っている中、隠されたように必要な物が詰め込まれていた。ありがたいことに小さくまとまっている。膨らんだ袖に隠すようにして持って、部屋に戻る。

 ベッドの上に服を置いて、少し迷ったふりをしたあと着替えを持って浴室へ入る。取り急ぎやっておかなければいけない事がある。

 服を脱ぐ。

 耳飾りも取り払い、まっさらな裸になる。

 シャワーを出して音を紛らわせるようにしてから、シャディクに渡された荷物の中から必要な物を取り出した。

 手のひらより小さい機械だ。パッケージは取り払われ、すぐに使えるようになっている。

 電源を入れ、手に持ったまま慎重に体に添わせると、ある一点でふるりと震えるのが分かった。

「………」

 角度を変えてもう一度同じことをする。

 …やはり同じ箇所で震える。

 エランははぁーっと息を吐いて、これからの事を考えた。

 片手に持っているのは探知機だ。たとえ粒のような小さなものでもそれが発信機の類なら反応する。

 シャディクに考えすぎではと言われていたが、やはり体に埋め込まれていた。

 幸いにして、場所は取り出しにくい胴体や四肢ではなかった。裂いても運動機能の低下はなく、自分で何とかできる範疇だろう。

 浴室に移動させた道具を見る。必要なものは、用意されている。ならすぐにでもやるべきだ。

 手袋をして、該当箇所を消毒する。麻酔も用意されていたが、今回は必要ないと判断。封を切り、メスを取り出す。

 まぁ失敗して千切れても問題ない。

 物騒な事を考えながら、エランは躊躇なく自分の耳たぶにメスを入れた。


『やはりあった。耳たぶだったから自分で取ったよ』

 小さな金属片を片手で弄びながらメールをする。相手はシャディクだ。

 すぐにピンセットで摘まめたおかげで、処置が終わっても時間はまだ余裕がある。エランの入浴時間はそれなりに長い方だ。

 すでに耳は出血が止まっている。専用のジェルで固めたので、傷が開く心配もない。数日もすれば治るだろう。

 他人名義の生徒手帳だったが、返事はすぐに来た。

『無茶するなよ。人を用意してもよかったんだぞ』

『そんなに時間はかけられないから。それに、部屋はいつも見られてる』

『プライベートがまったくないじゃないか』

『ないよ。そんなモノ最初から存在しない』

 一応、風呂とトイレは盗撮されていないことは分かっている。エランの入浴時間が長い理由だ。

 当初はすべての個室に設置される予定だったが、オリジナルが抗議して室内だけになったと聞いている。気持ちは分からないでもない。自分と同じ顔の男が何の尊厳もなくすべてを観察されるなんて、流石にあのオリジナルも嫌だったらしい。

 しばらくシャディクと益体もないメールをしてから、浴室を後にした。

 そのまま部屋を出て、今度はペイル寮のトレーニングルームへ向かう。普段エランはそれほど熱心というわけではないが、必要最低限の筋力を維持するために結構な頻度でこの施設を使っている。

 更衣室のベンチで長時間本を読みふけることもある。そんなエランの行動を、ペイル社はもちろん把握している。

 エランはロッカーを開けると耳飾りを外し、体内から取り出した発信機と一緒に置いた。しばらく見つめた後、静かに扉を閉めロックをかける。

「………」

 数年間を共にした道具は、エランと離された事にも気付かないまま情報を発信し続けるだろう。

 これでしばらくの間はエランは自由に行動できる。苦労して勝ち取れた貴重な時間だ。

 エランは更衣室を出て通路を歩き、落ち着いた足取りでペイル寮の外へ出た。

 すでに時刻は夕方だ。空の色も青から黄に切り替わっている。しばらく待てば黄からオレンジに、オレンジから赤に、そして夜の時間がやってくるだろう。

 黄昏に染まりつつある景色の中、ゆったりとエランは歩き出す。次は足の用意をしなければならない。


「決闘委員会の者だけど、委員会名義で小型巡視艇の使用予約をしたい」

「夜に見回りですか?ご苦労なことですね」

 向かった先はペイル寮ではなく、アスティカシア学園共通の管理施設だった。

 アスティカシアの学生は基本的に所属する寮の施設を使って生活するが、まれにあぶれる者や、外部から一時的に滞在する者などがいる。

 他にも諸々の理由があるが、要するに寮の垣根を越えて学園関係者なら誰でも使える施設がここだ。

 基本的に決闘委員会の仕事では、所属している各寮、全寮共通のアスティカシア学園、どちらの施設も使用していいことになっている。

 個人でする仕事は手軽な自寮の施設を使う者が多いが、複数人が絡まると学園名義の施設の方を使う。余計な軋轢を生まなくていいからだ。

 寮とは違い申請するだけなら個人名を出さなくていいので、今回は後者の施設を使わせてもらう。

「この間の決闘では領空外へと出たからね。置き去りになった装備やそれが原因のデブリがないか確認して、報告する必要がある」

「そうなるとけっこう広い範囲を見回りするんですね。作業用の機体を付属させます。モビルクラフトよりモビルスーツの方がいいでしょうか?」

「そうだね、フライトユニット装備のモビルスーツを1機お願いしたい。特に指定はないから、どの機体でも構わないよ」

「では汎用型デミトレーナーを用意します。フライトユニットの推進剤を多めにしておきますね」

「ありがとう」

 手続きを終えるとすぐに管理施設を出る。今は人がそれなりにいるが、もう一度ここへ来るときには閑散としているだろう。

 広場のベンチで小休憩する。アスティカシアは緑が多いが、ここも花壇に植えられた草木が繁り、夜ともなればうまい具合にその影で姿を隠してくれる。

 夜目で見えづらいが、時間つぶしにいつも持っている本を取り出して広げる。

 意思と表象としての世界。ショーペンハウアー作の哲学書だ。

 自分の未来に絶望しか感じなかった頃、まだわずかな希望にすがっていた時に出会った本だ。

 この本を読んでエランの心はずいぶん救われたと思う。実際に、本に培われた諦念のお陰で自らの最後にも冷静でいられた。

 エランの頭に、夢の中の光景が浮かぶ。

 白い影やエアリアルは未来の記憶だと言っていたが、あの時のエランは本当に自分が死んだと思い込んでいた。それほどにリアルな体験だった。

 常人なら発狂していただろう。その場合はスレッタ・マーキュリーの最後を見ても、きちんと理解できていたか分からない。

 白い影やエアリアルは友好的で無邪気なものだが、人の尺度では測れない存在だ。おそらく死んだ記憶も問題があると思わずに追体験させたんだろう。

 本の表紙を撫でながら、エアリアルに選ばれたのが自分でよかったとエランは思った。

 だんだんと夜の色が深くなる。

 周りの人影が更にまばらになっていく中、エランは立ち上がった。

 傍らには持ち主のいない鞄がいつの間にか置かれている。操作すれば大きさがある程度自由になる旅行用の物で、一番大きく設定すれば大柄の人間も運べるだろう。

反重力機能も付いているので、移動時の負担も掛からない。…もちろん、中に入れた『もの』に対してもだ。

 エランは鞄を手に持ち、歩き出した。

 暗闇へと進んでいく。この先の道は森しかないが、人目を気にせず作業するには向いている場所だ。

 歩きながら生徒手帳をポケットから取り出す。他人名義なので自分の知らない連絡先が登録されているが、それを無視して手動で番号を入力する。

 相手の名前は、スレッタ・マーキュリー。


『───ははは、はいッ!どどどどっ…どちらサマでしょウッ!』

「───」

 少し不安だったが、彼女はすぐに出てくれた。

 エランは耳を澄ませて慌てた彼女の声を聞く。知らない相手からの連絡だからか、いつもより挙動不審で、声の最後も裏返っている。

 背後からは『誰からの連絡ですかー?』とのんびりとした女の子の声も聞こえてくる。思った通り、地球寮でみんなと一緒に休んでいたようだ。

 まだ彼女は、温かく優しい世界にいる。

「僕だよ スレッタ・マーキュリー」

 万感の思いを込めて、名前を呼ぶ。

『エランさんッ!?あれ、名前が…』

「生徒手帳が使えないから、人のを貸してもらってるんだ」

『壊れちゃったんですか?大変でしたね…』

 彼女の労わりに満ちた声を、噛みしめる。

「もう遅いのは分かっているけど、これから会えないかな」

『え………』

 戸惑いの声、当然だ。

「どうしても、会いたいんだ。…いや?」

『イヤじゃないですっ!…うれしいですッ!』

 でもエランが甘えるように聞けば、スレッタはいつもこう答えてくれる。

 温かい世界にいる彼女は、これから大人たちによって冷たく暗い世界に引きずり込まれる。

 自分が手を引いて別の道を行っても、また同じような世界にしかたどり着けなくて、彼女は泣いてしまうのかもしれない。

 それでも。

「よかった、待ってる」

 彼女が手の届かない世界に行くよりは、ずっといい。

「───」

 空を見上げる。偽物の空はもう夜深く、藍色に染まっている。

 その先は、偽物の空よりもずっと深く、暗く黒い宇宙が広がっている。

「…待ってるよ。スレッタ・マーキュリー」

 彼女を連れて、その先へ行こう。もっと先へ…エランの生まれた青い蒼い星へ。


 スレッタ・マーキュリー きみを地球へと攫って行く。






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