ごめんねスレッタ・マーキュリー─地球に落ちた種─

ごめんねスレッタ・マーキュリー─地球に落ちた種─


※スレッタ視点です




 緊張に胸を高鳴らせ、無事に地球へと降りた船から慎重に一歩を踏み出していく。

「スカーレット、手を」

「はい、エランさん」

 補助してくれる彼に感謝しながら思ったのは、匂いが違う、という事だった。

 人工的なものとは違う、有機的な匂い。埃っぽく、どこか懐かしい匂い。

 搭乗橋の上からぐるりと景色を見渡すと、壁で区切られていない空は、どこまでも続いているように見えた。

 いや、事実続いているのだった。

 映像ではない不規則な形の雲が、視界を流れていく。

 シミュレーターとは違う自然のままの景色というものを、しばらくの間不思議な気持ちで眺めていた。


 スレッタ・マーキュリーは物心ついた頃から水星で暮らして来た。

 とはいっても、実際は地面の上で暮らしていた訳ではない。水星は人が根を下ろせるほど優しい星ではなかった。

 水星軌道基地「ペビ・コロンボ23」それがスレッタの正確な故郷の名前だ。

 天然の小惑星を改造したフロントとは違い、「ぺビ・コロンボ23」は完全な人工物で出来ている。太陽からほど近い水星では、頑丈な特殊金属で囲われた住居でなければ生活はできない。

 たとえ小惑星を使えたとしても、その恩恵のほとんどは使用せずに終わってしまうだろう。

 細々とした流通で支えられる採掘作業。

 ほんの少しの油断ですぐに死が近づき、油断しなくても太陽風の機嫌次第でまた別の死に近づく。

 そんな過酷な場所で暮らして来たスレッタには、管理されたフロントでもないのに、防護服もなしに地に足を付けることができる地球が特別な場所に思えた。

 どこからかゆったりとした風が流れてくる。

 スレッタは目を瞑って、肌に触れる空気の感触を感じていた。

 地も。

 空も。

 風も。

 とても力強く、とても大らかだ。

 何もせずとも、スレッタの存在を許してくれる。

 ほんの小さなころから密かに憧れていた地球という惑星。

 エアリアルと一緒に行こうと話し合っていた場所に、スレッタは立っていた。


 何もかもが初めて見るスレッタは、あらゆるものに目移りしてしまう。

 風がどこかへと消えた後、再び目を開けてキョロキョロと周りを見渡していると、心得たようにエラン・ケレスが手を引いて慎重にエスコートしてくれた。

 彼は先の見えないこの旅の同行人だ。むしろ彼が主体となってこの地球の大地を先導してくれる予定になっている。

 スレッタはエランに目を向ける。普段とは違う黒髪に褐色の肌の、見慣れない人の姿をしている。

 けれど、この人は間違いなくスレッタの好きになったエランだった。

 好きな人…。

 言葉にすると、何だか胸がどきどきしてくる。自覚したのは本当に、つい最近だ。

 地球へ向かう船の中で、スレッタとエランはお話をしていた。時刻は深夜。周りはもうみんな寝入っていて、起きているのは二人だけのようだった。

 座席の間に掲げるように二人で手を繋ぎ、ひそひそと内緒話をする。先ほどまで心地いい夢の中にいたのに、その時のスレッタはもう二度と眠れそうにないほど目が冴えていた。

 会話は、たしかエランの本来の外見についてだったと思う。

 本当の顔は平凡で、髪の色も平凡で、そのようなことを彼は言っていた。

 どれだけ卑下してもそれが彼ならば、スレッタは気にすることはない。たとえ頑張って周囲に溶け込もうとしても、目を皿にして彼を探し出そうとするだろう。

 そんな事を話していたところ、エランはふいに、可笑しそうに声をあげて笑いだした。本当に、小さく、密やかなものだったけれど。

 今までも口角を少し上げたりすることはあった。彼の微笑みを見ると嬉しくなって、いつまでも目にしていたいとスレッタはよく思っていた。

 けれどあの時の笑みは、その比ではなかった。

 彼の笑い声が鼓膜をくすぐる。空気を震わせて、耳に届く。

 彼が片手で口を覆って、でも笑いは止まらなくて、頑張って喉を鳴らすだけに留めようとしているのが分かった。

 我慢しすぎて痛くなったのかお腹を押さえて、でもまだ体は少し震えていて…。

 そうして一つ深い息を吸うと、彼はこちらに笑いかけてきた。

『ありがとう、きみのお陰で、僕はいつも救われてる』

 その笑顔があんまりにも優しくて素敵で、特別なものに思えて。

 目の前の男の子への、恋を自覚したのだ。


「色々手続きがあるけど、書類は僕が書くよ。文盲だという事にすれば大丈夫だから。市民カードだけ言われたら見せてね」

「はい、分かりました」

 周りの人に聞かれないよう、少し顔を近づけて話しかけて来る。そんなエランに、ドキドキしてしまう。

 降りた時はそれなりに人がいたが、途中でゲートが分かれていて、どうやら市民カードを持っているかどうかで行く場所が違うようだった。

 ゲートを通った途端に人が少なくなったのを不思議に思っていると、エランが簡単に教えてくれた。

「僕らの持ってる市民カードはスペーシアン側への移住許可証のようなものなんだ。たとえ下級のものでも、純粋なアーシアンで持っている人は少ないね」

 知らなかった。スレッタは水星で育ったから、もちろんスレッタ・マーキュリー名義の市民カードを持っている。

 てっきり誰でも持っている物だと思い込んでいたけれど、違うらしい。

 一応、地球には地球の市民カードのようなものがあるようだ。けどそれは統一されたものではなく、地域によって仕様が変わり、かなり使い勝手が悪いのだと言う。

 スペーシアン側の市民カードはまずそんなことにはならない。地球のどのような地域でも、同じように身分を証明してくれる。

「就職するにも、市民カードがあった方が断然有利だ」

「しゅうしょく…」

 遥か遠い先の未来の話のように思っていたが、エランは今すぐにでも就職してしまいそうなほど現実的なものとして話をしている。

 何だかすごい、とぼうっと見ていると、エランは大まかな予定を話してくれた。

「一応、しばらくは移動しようと思う。ここは大陸の東…右側のようだけど、左側へ行った方がまだ治安はいいようだ。色々と回ってみて、良さそうな所があれば家を借りよう」

 説明しながら、エランは端末の画面を見せてくれる。地球へ降下する前のフロントで手に入れた物で、スレッタも同じような物を持っている。

「東…太陽が昇ってくる方ですよね。フロントで知った言葉ですけど、こんなに大きな地球でも通用するんですね」

「元々は地球だけで使っていた言葉だよ。宇宙では東も西もないからね。フロントで地球と同じように生活できるようになって、ようやく復活した言葉らしいけど。あまり使っている人はいないかな」

「地球寮の皆は使ってました」

「ああ、そうだろうね。…少し、彼らと話してみたかったかもしれないな」

 その言葉に、スレッタは端末の画面から顔を上げた。

 エランが誰かに興味を持つのは珍しい。それが特定の個人ではなかったとしても。

「え、エランさん、今はわたしがいますよ!」

 焦ったように声をかけて、アピールする。今は何も知らないかもしれないが、生活していく内に色々と地球の事を知っていくだろう。

 そうしたら、エランとたくさん地球の話ができるはずだ。

 スレッタの言葉にきょとんとすると、彼は眩しそうに目を眇めて微笑んでくれた。

「うん、たくさん話そうね」

「えへへ。…とりあえず、北と南はしっています」

「それはコミックの知識?」

「はい、北は寒くて南は暑いんです。『雪国』と、『南国』です」

 笑いながら知識を披露する。それを彼は、同じように笑いながら聞いてくれる。

 楽しい。楽しくて、幸せだ。

 スレッタは初めての恋に浮かれていた。

 想い人が自分を連れて地球へと逃げてくれたこと。

 自分を守ろうとしてくれていること。

 それを噛みしめて、他の事は考えないようにしていた。

 地球に降り立ってから1日目。


 スレッタは、とても幸せな気分だった。









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