ごめんねスレッタ・マーキュリー─回る毒(前編)─

ごめんねスレッタ・マーキュリー─回る毒(前編)─


※犯罪行為の描写があります




少しずつ毒を作っていく

───僕たちが無事に逃げられるように

少しずつ毒を流していく

───僕たちを追って来られないように

少しずつ、毒を回らせていく

───僕たちが、生きていけるように

少しずつ、少しずつ…

───



………

…………

……………



 目的の場所に着いた時には、エラン・ケレスの心は凪いでいた。

 スレッタ・マーキュリーを地球へと連れて行く。その為に何が必要か、エアリアルに夢の記憶を植え付けられてからエランは考え続けていた。

 自分は何の力も持っていない貧民だ。都合が悪ければすぐに破棄されて次が補充されるだけの、使い捨ての部品でしかない。だから色々と小細工が必要だった。

 暗い中、ひとり静かにベンチに座る。街灯の光が体を照らし、落とされた影を怪物のように大きく見せる。

 ───彼女は来るだろうか。

 エランは考える。

 万全を期すなら、もっといい場所があるはずだった。こんな森の手前のさびれたベンチではなく、彼女が安心して来れる場所を見繕うこともできたはずだ。

 でも敢えてそうしなかった。

 ここはある意味でとても都合がいい場所だ。人目に付かず、管理施設にも近く、良識ある人ならば呼び出された人を心配するような、問題のある場所だ。

 スレッタは地球寮の皆へ律儀に行き先を教えるだろう。その後に彼女が居なくなればどうなるか。…エランの予想は、おそらく大きく外れることはない。

 生徒手帳は沈黙している。断りの連絡が来ることもなく、大人しくポケットに収まっている。

 スレッタのことだ。親切な誰かに心配されても、朗らかに大丈夫だと言っているに違いない。

 ───彼女はきっと、来てくれる。

 危なっかしくて、とても優しいスレッタの気質が、今の自分にはありがたかった。

 エランの心は凪いでいた。たとえ表面上のことだけだとしても、波風を立てる訳にはいかなかった。

 そして、彼女はやって来た。


「…え、エラン、さんっ」

 暗闇に少女の上ずった声が響く。明るく華やいだ、エランの事を何も疑わないでいる、信頼を寄せた声だった。

 心に細波が起きようとするのを、目を瞑ってかろうじて抑え込む。傍から見れば長い瞬きをしたように見えただろう。

 ゆっくりとベンチから立ち上がって、スレッタへと向き合う。街灯の明かりに照らされて、彼女の青い瞳は透き通るように煌めいていた。

「…ごめんねスレッタ・マーキュリー」

「い、いえ、突然でちょっとビックリしましたが、全然っ…構いませんので!」

 少しだけ彼女の声がどもっている。こんな遅い時間に暗闇の中で男とふたり、緊張するなというほうが無理だろう。

 スレッタの瞳がきょろきょろと動き、だんだんと顔が俯いていく。視線が固定され、ベンチの陰に置いてある鞄に注視しているのが分かる。

 スレッタの視線を掬い上げるように、エランは声を出していた。

「明日の外出だけど」

「は、はいっ」

「行けなくなった」

「………え」

「明日、ペイル社からの呼び出しが僕に来る」

「…そう、…なんですか」

 わざとおかしな言い回しをしたが、スレッタは気付かなかったらしい。せっかく上になった目線がもう一度伏せられる。少し残念に思いながら、ポケットにさり気なく手を入れた。

「そう。それで───ぼくは殺される」

「───え」

 何でもないことのように言いながら、ポケットの中にある物をつかむ。ハンカチと、小さな小瓶。スレッタのきょとんとした顔を見つめながら、小瓶のふたを片手で開ける。

「君も死ぬ。近い将来に殺される」

 あまり口に出したくはないが、聞かせた方がいい言葉だ。動かないスレッタを前に、小瓶の中身をハンカチにしみ込ませる。

「だから、スレッタ・マーキュリー」

 逃げもせず、スレッタは硬直している。事態を呑み込むことができず、あどけない顔でこちらを見ている。

「僕と一緒に、ここで死んでくれ」

 少しの距離を、一歩で詰める。反射的に後ずさりそうになったスレッタの腰に手を回し、エランの側にぐっと引き寄せると、すぐにハンカチを顔に当てた。

 効果は劇的だった。スレッタの大きな目は瞼の裏に隠れ、彼女の体から一気に力が抜けていく。

 エランの腕に体重を無防備に預け、スレッタは意識を失った。少なくとも数時間は起きることはないだろう。

 役目を終えたハンカチと小瓶を無造作に投げ捨てる。ついでにいつも付けている白手袋を外して近くに放る。

 素手になった手で改めてスレッタを抱き上げると、その軽さに少し目を見開いた。彼女は女性にしては背が高いが、骨格も細く、肉は指に食い込むほど柔らかい。エランからしたら心許ない体をしていた。

 ベンチを通り過ぎ、森へと入る。これからする作業は明るい元ではやりたくなかった。

 あらかじめ敷いてあったシートの上にスレッタを横たわらせる。道から外れ、街灯の明かりも少ない森の中だ。人から見られる心配はないだろう。

 スレッタの呼吸は正常に働いている。しばらく様子を見て異常が出ていないことを確認すると、エランはスレッタのヘアバンドを丁寧に外した。

「こんばんは、プロスペラ・マーキュリー」

 ヘアバンドに話しかける。

「僕の話を聞いていただろう?あるいはこれから聞くのかな。…まぁ、どちらでもいいけれど」

 親し気に聞こえるよう、気軽で柔らかな声音になるよう意識して声を出す。

 そうして世間話でもするような調子で、エランはふいに確信に触れる。

「彼女はエリクト・サマヤの器にはさせないよ」

 夢の中の恐ろしい光景を思い出す。

 プロスペラ・マーキュリーは、ペイルに捕らわれたスレッタを助けなかった。それまで散々スレッタの精神に介入してきたくせに、沈黙を貫いた。

 すべてを見てきたエランなら分かる。もう頃合いだと思ったのだろう。

「彼女はエリクト・サマヤじゃなく、スレッタ・マーキュリーとして死ぬべきだ」

 母親の思惑通り、パーメットスコアレベルを次々と上げていったスレッタは、ペイルに捕らわれた頃にはすっかり器としての準備が整ってしまっていた。

 エリクト・サマヤの器としての準備が。

 必要なのは体だけで、スレッタの精神は無くてもかまわない。いや、むしろ心が空っぽになってしまった方が都合がいい。

 だから、助けなかった。だから、彼女の悲鳴を無視した。彼女の心が小さくなって、ぼろぼろになって、誰の手にも触れられないほど遠くに行ってしまっても。

 そんなことは許さない。

「このままだと僕は死ぬ、彼女の心も殺される。なら最後くらいは一緒にいても許されると思うんだ。…体もついでに、頂いていくよ」

 エランの言い分は滅茶苦茶だ。先のない狂人の理屈だと思うだろう。

「僕がこんなことを知ってるのはおかしいと思う?でもとても親切なことに、教えてくれた人がいたんだ。あなたの知っている人だよ」

 勝ち誇ったほうに、無視できない情報を吐き出していく。

「ベルメリア・ウィンストンに聞いても、要領を得ない答えしか返ってこないと思うけど、他のペイルにいるあなたの協力者については…どうだろうね。何か分かるかもしれないね」

 破滅の前の吐露のように装って、少しずつ毒を流し込んでいく。

「プロスペラ・マーキュリー、僕はあなたに感謝している。…スレッタ・マーキュリーをこの世に生み出してくれて、ありがとう」

 では、さようなら。

 その言葉を最後に、エランは沈黙した。


「………」

 これでもう、このヘアバンドには用はない。本音を言えばくしゃくしゃにして投げ捨ててしまいたいが、宝物のように大事にしていたスレッタのことを思うと無下にはできない。

 シートの近くに置いていた小箱を出して、出来るだけ静かにヘアバンドをしまい込む。内側に張られた柔らかな布地に包まれれば、小さな音なら聞こえなくなるだろう。

 小箱を茂みへと隠し、改めてスレッタと向き合った。この場でもう一仕事しなければいけない。

 スレッタは起きる様子もなく静かに横たわっている。改めて呼吸と脈を確認したエランは、体調に変化がないと知ると躊躇なく彼女の服に手をかけた。

 ホルダー服を脱がし、インナースーツを脱がし、少し手間取りながらも下着を脱がせる。髪留めも外すと、彼女のふわふわした髪がシートの上に広がっていった。

 素早く全身に目を向ける。分かりやすい手術の痕はなく、怪我も病気もない健康な体だ。

 何も身に着けていないスレッタに大きめのタオルをかけると、エランは自分にも使った探知機で彼女の体を丹念に調べていく。

 自身の時よりも真剣に、少しの異常も見逃さないように。

 プロスペラ・マーキュリーは亡くなった娘であるエリクトの為に、スレッタの体だけは大事にしていた。だから、可能性は低いが…。

 1度目の往復。反応なし。

 2度目の往復。反応なし。

 結果として、スレッタの体に発信機は埋め込まれていなかった。3度目の往復を終えたエランは知らず詰めていた息を大きく吐き出し、強張っていた体の力を抜いていく。

 よかった。彼女の体を切り刻まなくてすむ。

 安堵に身を緩めていたが、いつまでもこうしている訳にはいかない。何より裸のスレッタが可哀想だ。

 新しく用意していた衣服を取り出し、スレッタを早々に着替えさせる。その後に念のため彼女が着ていた服も調べたが、発信機の反応は何もなかった。

 スレッタは従順な娘なので、そんな物など付けなくても行動は把握できたんだろう。

 …これからは、違うけれど。

 微かな満足感を得ながら、壊れ物のように大切にスレッタの体を抱き上げた。

 スレッタをベンチにそっと横たわらせると、手早く荷物を纏めて鞄へとしまう。頑丈な二重底になっているので、硬い荷物であっても彼女の負担になることはない。

 そうして最後にスレッタの体も鞄の中に仕舞い込む。内側には衝撃を吸収する緩衝材が敷き詰められているので、彼女の体を柔らかく受け止めてくれるだろう。きちんと呼吸ができるように調整して、鞄を閉めた。

 スレッタの私物や森の中で使ったシートなどもすべて入れたが、先ほど捨てたハンカチや小瓶、手袋、ヘアバンドを入れた小箱はそのままにしておく。

 自分たちの逃亡に、後で必ず役に立ってくれる。

 管理施設に向かうまでのわずかな間、スレッタを物のように扱うことに心を痛めながらも歩き出す。

 歩きながら、考える。

 プロスペラ・マーキュリーへは毒を流した。

 次の毒を流す相手は、ベルメリア・ウィンストンがいいだろう。

 エランは今夜、至るところに毒を撒き散らし、跡を汚していく決意をしていた。

 力のない貧民では、小細工をしなければ生きていけない。


 心が波紋を広げたが、エランは無視をして歩き続けた。







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