ごめんねスレッタ・マーキュリー─友との語らい─

ごめんねスレッタ・マーキュリー─友との語らい─






 室内に微かな筆記音が響く。

 目の前にはグラスレーの寮長であるシャディク・ゼネリが、真剣な眼差しでメモ帳を睨んでいる。

 本来なら競い合うはずのライバル会社の人間だが、今のエラン・ケレスにとっては貴重な取引相手だ。

 エランの世界は狭く、浅い。その中でもこの男と知り合えたのは、ある意味幸運だったと言える。

 誰にも邪魔されないよう手早く話を進めながら、エランはここ数年の出来事を思い浮かべた。

 エランは元々、アーシアンの最下層に位置する貧民だ。もう記憶も朧だが、毎日食うものも困るような生活をしていた。

 金も力も学もない、小さな子供が大人に抗うことは不可能だ。

 庇護してくれる保護者がいなくなった後、気付いた時にはエランはペイル社の強化人士となっていた。

 繰り返される実験。並行して行われるモビルスーツの操縦訓練。管理される日々。選定され、作り直される体。

 実験体として顔も名前も自分の物ではなくなった少年は、僅かに自由にできる意志以外はすべて他人の言うとおりにして生活してきた。

 学園に送り込まれ、なるべく人と関わらず、優秀な成績を維持しながら、ペイル寮の『エラン・ケレス』として過ごしていく。

 時折戯れのように投げかけられる指示にも、人形のように淡々と従いながら。

 諦念からくる従順さは、傍から見れば囲われて生きる家畜のように見えただろう。

 スレッタ・マーキュリーと出会うまでは、エランはそうやって生きてきた。

「………」

 エランの耳元で房飾りが揺れる。

 ペイル社から支給された耳飾りは、位置を特定する発信機、そして盗聴器としての機能も備えている特別製だ。

 盗撮機能が付いていないことが救いだが、会話や行動範囲はすべて記録されている。

 本物との違いを明確にする識別タグは、お前は人ではなく家畜だと突きつけられているのも同然だった。他の強化人士にも、きっと類似のものが与えられているだろう。

 データでのやり取りもリアルタイムで監視され、エラン本人のプライベートはないに等しい。

 …それでも、やりようはいくらでもある。

『■■:■■までの時間に、指定のポイントへ船を向かわせることはできる?』

『手持ちの部下に指示すれば十分間に合う。ダミーをいくつか用意して、グループの人間に気付かれないようにしよう』

『最低限必要な物は、ここに書いてある。用意は可能?』

『大丈夫だ。あとで寮の部屋に届けさせる。一応、他の人間の生徒手帳も用意しようか。使用データとかも監視されてるんだろ?』

 次々とメモ帳に文字が埋まっていく。

 シャディクは最初の動揺から抜け出すと、冷静に対処をし始めた。頭の中では猛烈に計算が始まっているだろう。

 エランの傍らに置いてある日記帳は、シャディクにとって黄金にも等しく見えているはずだ。

 日記にはペイル社の秘密の他に、今の時点で分かっていてもおかしくない情報、エアリアルの機体性能や、プロスペラ・マーキュリーの動向についても書いてある。

 それらに追記する形で、何らかの復讐のためにスレッタが学園に送り込まれたことも、さりげなく匂わせてある。

 どこまでシャディクが信じるかは分からないが、それでもスレッタに対する洗脳疑惑は捨て置けないはずだ。

 強力な兵器を持っている娘がプロスペラ・マーキュリーの意志で簡単に少年兵士になる可能性があるのだ。あらゆる戦況をひっくり返すジョーカーになり得る。

 現に、プラント・クエタではそれが原因で総裁暗殺に失敗している。

「………」

 暗い思いが沸き上がる。テロリストを無力化するために家族のように思っているエアリアルの手を血に染め、自らも血塗れになったスレッタの姿を思い起こす。

 その原因の1つは、目の前のこの男だが…。

 目線を向けると、シャディクは少し目を見張り、エランを安心させるように微笑んだ。

 普段のシャディクと変わりない、社交的で、腹の底を見せない笑み。

 だが、思いのほか情に厚いことを今のエランは知っている。

 まだこの男は何もしていない。計画は練っているかもしれないが、まだ実行段階には至っていない。

 スレッタも、まだ何もしていない。エランの知っている少女のままだ。

 まだ、間に合う。

 …間に合わせてみせる。


「…エラン、飲み物のお代わりはいるかい?」

「…そうだね、貰うよ」

 取引がひと段落ついた後、空気を入れ替えるようにシャディクが立ち上がった。

「水星ちゃんへの贈り物は決まった?」

 新しくカップを用意しながら、シャディクが世間話を振ってくる。

 取引中も何度か操作だけはしていた生徒手帳を手に取り、エランは改めて画面を見つめる。

「なかなか、難しいね。まだ決めかねてる」

 画面には可愛らしい小物がたくさん並んでいる。エランには用途が分からないが、女の子には人気らしい。スレッタも、好きなんだろうか。

「そんなに悩むなら今決めなくてもいいんじゃないか?水星ちゃんの好みもあるだろうし、2人で出かけた時に選んでもらいなよ」

「………」

 2人で出かける。

 確かにこの逃亡が成功すれば、しばらく2人で行動できるだろう。

 でもその頃には自分はスレッタに恨まれているだろうし、彼女の心にそんな余裕が出来るとは思えない。

 思わず暗い顔をしていると、シャディクが殊更に明るい声を出した。

「そんな顔するなって、サプライズがしたいなら、プレゼント以外でも出来るだろ。例えば私服でデートするとかさ、水星ちゃんびっくりするぞ」

「…私服を持ってない」

「じゃあ後で届けさせるよ。ファンクラブみたいなのがあってね、たまに服をくれるんだけど、サイズが合ってなかったり趣味じゃないのもあるんだ。丁度いいから貰ってくれよ」

「…どうも」

 荷物を届けさせる為の口実作りか。実に鮮やかだが同時に揶揄われていることも分かってしまう。

 最初にやり込められた事の意趣返しだろう。エランはむっつりと黙り込む。

 それを楽しそうに見ながら紅茶を飲んだシャディクは、更に会話を進めて来る。

「そういえばグエルには何も話さないのか?」

「グエル・ジェターク?」

 唐突に出てきた人名に首をかしげる。

「グエルも御三家だし、女の子の取り巻きもいるだろ。話だけでも何かの参考になるんじゃないのかって思ってね。ほら、仲直りのついでにさ」

 含みを持たせた物言いにエランは気づく。今回の逃走騒ぎに一枚嚙ませてはどうかと提案しているのだ。

 もちろん、それほど本気ではないだろうが…。

「論外だ」

「おや、手厳しい」

「グエル・ジェタークにそんな気の利いた事を期待するほうが間違っている。絶対にややこしい事になるに決まってる」

「いや、本当に厳しいね」

 思い出すのはグエルがスレッタに跪く姿だ。

 あの男はさっきまで戦っていた相手に突然プロポーズをするような脈絡のなさがある。何をしでかすか分からない怖さだ。触らない方がいい。

 それに、あんなにスレッタに執着している男だ。エランがしようとしている事を察知すれば妨害してくる可能性がある。

 逆にスレッタを連れて逃走されることだって十分にあり得る。あの男は地位も金も家族も持っているくせに、それをあっさりと捨てられる男なのだから。

 自分が勝手にした想像に、段々と目が座っていくのが分かる。

「ふっ…ははッ、エラン、その顔…っ!」

シャディクはそれを見て、可笑しそうに腹を抱えて笑っている。

「何」

「だってその顔、グエルが水星ちゃんにプロポーズしたのを見た時のと同じだぞ」

「………」

 そんな事は知らない。あの時は、そう、エランと同じように苦しんでいるスレッタに戦いを強要しておいて、何を勝手なことをと憤っていただけだ。

 結局彼女はガンダムに乗っても苦しむことはなかったし、あの時とは状況が違うのだから、同じもなにも…。

「気に入った友達を取られそうになってる子供の顔にそっくりだ」

「───」

本質を言い当てられた気になってエランは息を呑む。

「それは…」

 我が儘な子供のようだと言われたも同然だ。

 確かにエランひとりで対処しなくても、スレッタの事なら誰かに託すことだって出来る。

 ひとりだけで逃げて命を長らえた後、それこそグエル・ジェタークにでも助けを求めれば、スレッタをプロスペラの手から隔離して守る事だってできるかもしれない。

 何の力もないエランと比べて、グエルには出来る事が多くあるのだから。

 けれど。

「───そうだね」

 エランは頷いていた。耳飾りが微かな音を立てる。

「君の言う通りだよ。…僕は、僕と彼女の間に、誰にも入ってもらいたくないんだ」

 自分でも驚くほど自然に、自らのエゴを認めていた。道理に合わない、理不尽な事を言っていると分かっているが、それが正直な気持ちだった。

 自分とスレッタの間に誰かが挟まるのが嫌で仕方ない。グエルでも、自分とそっくりの別の誰かでも同じことだ。

 例外はミオリネ・レンブランくらいだろう。

 エランの宣言にシャディクはぽかんと口を開けて驚いている。君が言わせたんだろう、という意味を込めてじろりと睨めば、シャディクは大きく息をついた。

「そうかぁ…」

 シャディクは眉根を下げて、目を細めている。なんだか泣きそうな顔をしていた。

 そのまま、唇が弧を描いていく。

「エランは、正直者だな」

 エランにとって、シャディクという男の笑顔を見たのは、これが初めてなのかもしれなかった。

「君も正直になればいい」

 言って、日記をシャディクに渡す。彼は目を丸くして驚いていた。

 今渡せば取引を反故にされるかもしれない。契約書も何もない口約束なのだから当然だ。

 けれどエランは大丈夫だろうと思った。

 貧民の少年は大人に言われるがまま、この数年をただ家畜のように生きてきた。

 得たものは殆どないが、それでも確かに手にしたものはある。

 エランは男をじっと見つめる。


 目の前で、数年を同じ学園で過ごした友人が笑っていた。







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