ごめんねスレッタ・マーキュリー─エピローグ、あるいは…─
※色々な視点からのSSです。論理的にアレな大人の話が出てきます。児童性的搾取を思わせるセリフ(未遂)、若干センシティブな表現などが含まれます。
【研究員、あるいは監視員】
男は退屈そうにゲームをしていた。
上、下、右、右…。端末機の画面をタップする。
画面の中では派手なエフェクトで敵が爆発している。ピカピカと画面が光を放っているが、音は聞こえてこない。わざと消音にしているからだ。
BGMもなく操作するゲームは退屈でつまらなく感じる。だが、何もしないよりはよほどいい。
男はこれが面白くてプレイしている訳ではない。暇で暇で仕方ない時間をどうにか消費しようとしているだけだ。
ゲーム内のクエストがひと段落ついたので、ついでに壁に備えてある時計を見る。時刻はすでに、就業時間をとっくに過ぎた時間帯だった。
今日だけはあと数時間は交代できない。男は仕方ないとため息をついて、またゲーム画面に視線を戻した。
男はペイル社の社員だった。数年前まではまだマトモな仕事をしていたが、当時の相方が不祥事を起こして、何故か自分まで閑職に追いやられてしまった。
今はしがない監視員をしている。
だがそれも、あと数時間の辛抱だ。イヤホンからガヤガヤとした環境音が流れるのを聞きながら、男はぼんやりと今度はモニター画面に視線を移した。
どこかの建物の立体見取り図の中に、色の違う丸い点が2つ光っているのが見える。
点の持ち主を頭に思い浮かべ、男はうっすらと笑みを浮かべた。
どうやら今日も、部屋に戻らずにトレーニングルームに長居しているらしい。
───明日の朝には処分されるのに、いつも通りに過ごしているなんて馬鹿な奴だ。…まぁ、知らないんだからしょうがないか。
男が浮かべたのは嘲笑の笑みだ。
監視している対象は、強化人士4号『エラン・ケレス』。ペイル社に所属しているひとりの少年だった。
もちろん、本名ではない。実験用のモルモットにそんなものはいらない。
男は4号が気に入らなかった。
数年前は相方と一緒に華奢な少年だった4号を調整する仕事をしていた。もちろん、仕事内容も今より刺激的だったし、給料もよかった。
だがその頃から男は4号が嫌いだった。
汚らわしいアーシアンの子供のくせに、当時でも男より知力も体力もあり、モビルスーツ戦ではとびぬけて優秀な成績を収めていた。おまけに元の顔もよかった。
生まれを除けば、4号はすべてのスペックが男より遥かに上だった。
だから4号にしていた相方の嫌がらせにも見て見ぬふりをしたし、上にも報告はしなかった。
結局相方の嫌がらせはバレてしまい、それに巻き込まれる形で今はこんな面白くもない仕事をさせられる羽目になっている。
だがそれも明日で終わりだ。
男より何もかも恵まれたスペックを持った少年は、ただその生まれがアーシアンだというだけですべてを失うのだ。
そう思うと男は気持ちがスッとする。早く明日にならないかな、と少し機嫌を直しつつ、また退屈なゲーム画面に視線を戻す。
そんな男がいる部屋に、珍しく来客がやって来た。
「ごめんなさい、ちょっといいかしら」
「はい、どうされました?」
イヤホンを外して返事をしつつも、男は内心で眉を潜める。
相手は男の仕事を引き継いだ研究員、『ベルメリア・ウィンストン』だった。
男は彼女の事も気に入らない。人の仕事を奪っておいて平気な顔をしている、まさに厚顔無恥な女だと思っていた。
「今日の4号の行動だけど…」
「はぁ…今日もトレーニングルームから動いていないようですが」
一体なんだと言うのだろう。いつも次の監視員に引き継ぎをするまで放っておかれるのに、今日に限って面倒くさい。
男はひっそりとため息を吐きながら、モニター画面を指さして説明する。
「ここに点があるでしょう?これが4号の「生徒手帳のログを今すぐ確認して欲しいの」
「はい?」
男の説明に被せるようにベルメリアは口を出してきた。唐突な物言いに、男は呆気にとられてしまう。
「だから、生徒手帳のログを確認して!今すぐよ…っ!」
「はぁ…」
高圧的な態度に少々物怖じしながら、男は指示に従った。
生徒手帳のログなんて、いつも交代前に少し確認するだけだ。普段はそれで事足りているのに、何をそんなに焦っているんだ。
男はモニター画面を切り替えつつも、マニュアルでは生徒手帳のログも常に確認するように書かれていた事を思い出した。
抜き打ちのテストだろうか。もうすぐ監視対象自体がいなくなるというのに、性格の悪い…。
ヒヤヒヤしつつも、ログを呼び出す。そして、目を見開いた。
そこには、何故かアスティカシアの管理施設でのデータが残されていた。
小型巡視艇の使用許可IDが発行されている。…いつの間に?
「そ、そんな…でも確かに」
何度見ても目標はトレーニングルームにいると光が主張している。なのに生徒手帳のログはまったく違う動きをしている。
「4号は、発信機を何らかの手段で無効化したのよ」
そんな馬鹿な。発信機の1つは実験体自身にも知らされずに体内に埋め込まれているのに。
「彼はすでに、フロントの外…領空外の近くまで出ているわ」
「そんな…うそです。そんな…」
男は首を振る事しかできない。退屈なだけで、簡単だったはずの仕事がなぜこんな事になったのか、まるで理解できない。
必死に言い訳を捻りだそうとした時、男は新たにこの部屋へ近づいてくる音に気が付いた。
コツ、コツ、コツ…。
ゆったりと一定のリズムを刻んだ足音は、男のいる部屋の前でピタリと止まった。
嫌な記憶を思い出す。
数年前の不祥事が発覚した時も、こんな音を聞かなかっただろうか。
男の顔はもう蒼白になっている。ブルブルと震えながら入り口を見ていると、部屋の扉が音もなく開いた。
「よぉ、ベルメリア。なんだか面白いことになってそうだな?」
「…エラン様」
ベルメリアの声を聞きながら、男はヒッと小さな声を出す。
酷薄な笑みを浮かべたその顔は、数年前に見た悪夢そのものだった。
「お前、まぁたサボってやらかしたのか?」
作り物のような美しい顔は、男の目にはまるで死神のように映っていた。
【エラン・ケレス、あるいはオリジナル】
強化人士4号が行方不明となってから、もう数時間は経っている。
エランは4号が使っていた調整用の椅子に座りながら、ベルメリア相手にいつものような雑談をしていた。
「しっかし『俺』もなかなかやるなぁ。気に入った女を道連れに無理心中なんてさ」
「………」
「でもまぁ『俺』はそういうヤツだよ。数年前も自分を襲った変態をボッコボコにしてたからなぁ。意外と狂暴なんだよアイツ」
「………」
「本人は死ぬつもりで反撃したみたいだったけどな。お咎めなしと知ったら驚いてたしさ。…って、ああ、ベルメリアは知らないか。お前の前任者、子供に欲情する変態だったんだよ」
「………」
「貴重な強化人士の上、さらに俺の影武者なんだからそれなりに保護される立場なんだが、知らされてなかったみたいでな。直訴すれば一発で対処されてただろうに、下着に手を掛けられるまで我慢してたみたいだ。ちょっと可哀想な事したな」
「………」
「ま、俺としては無能を追い出せたうえにベルメリアを呼び寄せられたんだから、変態様様だけどな」
「………」
「もうひとりの無能も処分できたし、まぁ今回も結果的にはよかったんじゃないか?」
「………エラン様」
「んー?」
「オックスアース社の、ルブリスという機体をご存じですか?」
「知ってるに決まってるだろぉ?ロールアウトされた数も言えるよ俺は」
「…型式番号はXGF-02。量産型とは違う、試作機のルブリスです。4号はこれを調べろと言っていました。…ガンダムの呪いが軽減するからと」
「………」
「ベネリットグループのどこかに隠されているとも。…どうやら4号に情報を流したのは、先輩…プロスペラ陣営にいる何者かのようです」
「へぇ…」
「ルブリスの奪取…。私はこれを、CEОに提案するつもりです。もしかしたら、強化人士の耐用年数が大幅にアップするかもしれません」
「ベネリットグループって一口で言っても、系列会社も含めたらどれくらい隠し場所の候補があると思ってるんだ?そのうえ何らかの手段で奪取する?…現実的とは言えないな」
「だとしても、です。…4号の、あの子の遺言です」
「あの『俺』がどうして憎いペイル社の利益になるような事を言うんだ?罠だろ」
「…あの子は、次の強化人士の事を心配していました。助けてあげて欲しいと。その為のルブリスです」
「ふぅん。………」
ベルメリアの言葉に、エランは男の割にほっそりとした指を顎にかけ、少しの間考え込んだ。
しばらくして、エランは興味を無くしたようにふらりと調整用の椅子から降りると、コツコツと足音を響かせながら入り口へと歩いて行く。
ベルメリアは悲壮な決意を固めたように俯いている。自分でも社の方針を左右するような意見など、大それたものだと理解しているのだろう。
エランは入口へ手をかけると、ベルメリアの方へ振り向いた。
「しょうがないから、俺からも婆さんたちに言っといてやるよ。『俺』からの珍しい、最後の頼み事なんだろ?約束してた報酬も結局は渡せなかったし、手向けとして少し手助けしてやる」
「エラン様…!」
「頼むだけだからな?断られたら諦めろよ」
「は、はい…!ありがとうございます、エラン様!」
嬉しそうなベルメリアの言葉を浴びながら、エランは部屋をゆっくりと出て行った。
深夜の社内にコツコツと足音が響いていく。もう寝てもいい時間だが、生憎と目がさえていた。
さて、次はどこへ行こう。
CEОは簡単な指示を出した後、補佐役に任せてまた就寝してしまった。今はまだ向かうべきじゃないだろう。
他に行くなら、4号の情報が集まりそうな所がいい。情報局あたりにお邪魔しようか。
「…ルブリスの情報をわざわざ『俺』に、ねぇ…」
ベルメリアにはああ言ったが、エランは強化人士4号が死んでいるとは思っていなかった。
あの男は、死ぬときには潔く死ぬ男だ。ましてや恨み言を言いながら何の罪もない女の子を道連れにするなんて、そんな見苦しい真似をする筈がない。
4号は生きている。
そして生かしたのは、ベルメリアの言葉を信じるならプロスペラ陣営にいる何者かだ。
裏切者の彼、または彼女は4号にルブリスの情報を流した。そして逃亡の手助けをした。それは、何のために?
何かの利益のためだろう。ならその利益とは何か?
───スレッタ・マーキュリーの身柄を母親から引き離させるためだ。
色々考えた末のその結論は、エランの頭の中に実にしっくりと収まった。
4号に彼女を殺させるよりは、彼女を連れて逃げ出すように誘導する方がよほど容易にできるはずだ。
別組織の人間…4号を実行犯として使えば、プロスペラの隙を突くことも可能なはず。そしてルブリスの情報を撒いてデコイにすれば、ペイル側からの4号たちへの追跡も緩む。
動機はプロスペラの思惑を挫くためか、またはスレッタ本人の安全を確保するためか、そこまでは分からないが…。
いずれにせよ、プロスペラの計画の1つは確実に頓挫する。他の計画の実行も難しくなるだろう。
娘の人格をスレッタの肉体に移す『エリクト・サマヤ再生計画』は、ひとりの裏切者とひとりの少年の共謀によって消えてなくなるのだ。
「ふふ…」
思わず、と言った風に笑う。
プロスペラのエリクト再生計画には、エランは最初から反対の立場だった。
せっかく寿命で死なない体を手に入れられたのに、また肉の器に閉じ込められるなんてエリクトが可哀想だと思っていたのだ。
なのにプロスペラはそれを理解せずに、エリクトを普通の女の子へ戻そうと苦心している。母親の情というものは厄介なものだった。
「そんなにエリーに会いたいなら、自分から会いに行けばいいのにな」
彼女と同じ体になって、彼女に会いに行けばいい。きっと話も出来るはずだ。
その為のガンダムの研究。その為のペイルでの検体協力なのだから。
今までは巧妙にエリクトの眠っている機体は隠されて来た。けれどもペイル社の総力を挙げれば、彼女をエランの手元に確保できるかもしれない。
それをする為の建前はもう用意されている。切っ掛けを与えてくれた4号に感謝したいくらいだ。
エランは上機嫌に頭の中で計算する。
4号たちはおそらく、いつかは地球へ降りるだろう。フロントに留まるよりその方が身を隠しやすい。
工作員としてなのか、一般人としてなのかまでは知らないが。…プロスペラからスレッタを隠す目的だとすると、後者だろうか。
地球へ降下するときだけは見つかる危険があるので、エランは少し手助けをしてやる事にする。入管管理局で捕まらないよう、ペイル側から細工をするくらいは簡単にできる。
そうしてプロスペラの手からスレッタを遠ざけてやる。せいぜい4号には彼女を連れて逃げ回ってもらえばいい。
もし裏切者が思ったよりも非情で2人が始末されているのだとしても、エラン的にはなんの損害もない。4号の事を気に入っていたエランが、個人的に少し残念に思うくらいだ。
…あとはプロスペラへの対処をどうするかだ。
ペイルとプロスペラ陣営が敵対するとなると、エランの立ち位置は難しいものになる。むしろ本当に敵対してしまった方が楽なくらいだ。
ルブリスを手に入れるまではのらりくらりと躱すことに専念したほうがいいだろうが、もしエリクトの眠っている機体を手に入れられたのなら。
彼女がエランのそばに戻って来てくれたなら。
…次はエランの新しい体が必要になる。正直今のファラクトのままでは力不足だ。
ならば。
「…エアリアル」
───欲しいなぁ、あの機体。
エランの呟きは、誰に聞かれることもなく闇に溶けた。
【一般アスティカシア生徒、あるいは一般グラスレー寮生徒】
その日、男子生徒は散々な目にあっていた。
先生から無くしてしまった生徒手帳の件を怒られ、目当ての女性徒へのランチの誘いを断られ、しまいには今とても怖そうな大人に囲まれている。
あまり立ち入る事のないフロント管理局の部屋で、男子生徒はしょんぼりと項垂れていた。
「グラスレー寮生徒、ジョン・ヴァン・シモンズ君で間違いないね」
「は、はいぃ…」
ビクビクとしつつ返事をする。自分は何かしてしまったのだろうか、生憎と、とんと覚えがない。
「そんなに怯えなくても大丈夫だ。これは君の物だろう?確認して欲しい」
「あっ俺の生徒手帳!」
案外優し気な口調に安心しつつ、差し出された端末に反応する。
背面を表にしたそこには、グラスレー寮2年のレネ・コスタちゃんの姿が大きくプリントされている。この端末は、間違いなく男子生徒の物だった。
「君の物で間違いはないか?」
「はい!…よかった、今日生徒手帳が無くて困ってたんです。でも、どうしてこれをフロント管理局の人が?」
「…そうだな、あまり公言はしないでもらいたいが、これを持っていた人物が出先でトラブルに巻き込まれてな。本人ではすぐに返せないだろうと、フロント管理局のほうに現物が回って来たんだ」
「そうだったんですか。エラン先輩、大丈夫なんですか…?」
「なんだ、本人に直接会って渡したのか?」
「はいそうですけど。あ、いや、すいません。昨日先輩が困ってたみたいだから、つい貸しちゃって…。いけない事だとは知ってたんですけど」
「いやすまないね。君たちに接点がないように見えたから、ついね。でも生徒手帳の貸し借りは感心しないぞ」
「す、すいません。もう今回で凝りました。もうしません」
「それでいい。…それで、昨日はどういう経緯で生徒手帳を貸すことになったんだ?」
「はぁ。外の広場で話しかけられて、ちょっと生徒手帳を貸して欲しいって言われたんです。相手が氷の君だったんで、慌てて貸しちゃいました」
「どれくらいの時間帯だった?」
「もうけっこう暗くなってましたね。急いで寮に帰る途中だったんですけど、暗いところから急に話しかけられたんでビックリしました」
「ふむ。その時のエラン・ケレスに何かおかしいところはなかったかな?」
「え…暗かったからなぁ。普段通りの氷の君に見えたんで、体調が悪そうだとか、そういうのは気付かなかったです」
「些細な事でもいいんだよ。何か普段と違う所はなかったかな?」
「端末を忘れる氷の君ってところがもうおかしいですけど、それ以外でなんですよね?…う~ん。…あっ!なんか大きな荷物持ってました」
「大きな荷物?」
「はい、旅行に使うみたいな大きな鞄です。これくらいの」
言いながら男子生徒は両手で大きさを再現してみせた。即席のパントマイム劇場を観劇しながら、大人たちは真剣な顔で話し合っている。
とりあえず大きさを把握したのか、こちらを見ている大人がいなくなったので男子生徒は大人しく椅子に座り直した。
「状況は大体理解した。今回は大変だったね。これに懲りて、もう生徒手帳の貸し借りはしちゃいけないぞ」
「は、はいぃ。肝に銘じます」
「では最後に生徒手帳のログを確認して欲しい。消されたデータとかはないかな?」
「あ、はい!ちょっと待っててください!」
「慌てなくてもいいよ」
優しい大人の言葉に安心して、男子生徒はじっくりと端末を確認した。
連絡先は全部そろっている。データなども全部そろっている。
ちなみに画像データのほとんどはレネ・コスタちゃんの物で、ほんの少しだけ地球寮の…気になっている女の子を遠いところからこっそり撮った画像が入っている。
「あの、が、画像データとか、確認してないですよね?」
「…特定の女子生徒に入れ込みすぎるのは感心しないな」
「ああぁ…!!」
見られている。恥ずかしさで真っ赤になりながら、男子生徒は確認作業を進める。
通話履歴、同室の子への通話が前日の夕方になっている。これはОK。
メール履歴、友達へのメールが前日の夜になっている。これもОK。
「大丈夫です。データ消えてないです」
「それはよかった。失礼ながらすこし見させてもらったが、エラン・ケレスに生徒手帳を貸す直前までメールをしていたんだね」
「あ、はい。急いでたんで単語でのやりとりだけしてました。一応エラン先輩に貸す前にもうメール終了!って書いて送ったんですけど、その後もメールが入って来てますね…」
「歩きながらのメールは危ないぞ。今後は本当に気を付けるように」
「はい、金輪際もうしません。すいません…」
「じゃあこれで帰っていいけれど。エラン・ケレスに端末を貸したことは誰にも言わないように。しばらく彼は学校に来られないようだから、それも吹聴しないように」
「分かりました。エラン先輩、ケガとかはしてないですか?」
「こちらも詳しい事情は聞いていないが、しばらく休ませるとは言われているな。心配せずとも、君のせいではないから気に病まない事だ」
「はい、ありがとうございます」
意外とフロント管理局の大人は優しかった。男子生徒はフロント管理局の人からもらった菓子を大喜びでポケットに入れ、ほくほくしながら帰宅した。
グラスレー寮へと帰ったあと、一応今回の事は報告したほうがいいだろうと、寮長室へ寄っていく。
「ジョン・ヴァン・シモンズです。生徒手帳の件で報告があります」
「入ってくれ」
「失礼します」
室内には、寮長であるシャディク・ゼネリが座っていた。近くにはサビーナ・ファルディンが控えている。残念ながら愛しのレネちゃんはいなかった。
「今フロント管理局から生徒手帳を返されました。確認しましたが、エラン先輩が使用した…夜からのデータはペイルによって消されているようです。それと、昼からのデータはきちんとダミーの物に差し替えられていました。気付かれた様子はありません」
「こちらも確認した。フロント管理局に潜り込ませた工作員が、君によろしくと言っていたよ」
「あの優しいおじさん、やっぱりそうだったんですね。お菓子ありがとうございましたと伝えておいてください」
「伝えておこう」
「では失礼します」
「うん。もう暫くは学園生活を楽しんでおいで」
「はい、『プリンス』」
男子生徒、ジョン・ヴァン・シモンズはグラスレー寮の生徒であり、レネちゃんのキープ君12号であり、プリンス配下の工作員だ。
といっても所詮学生の身なので大したことはできない。せいぜい大きな鞄を氷の君に届けたり、偽の証言をすることくらいだ。
それだけでアーシアンの孤児の身分でありながらスペーシアンの学園で学べるのだから、破格の待遇だろう。
憧れの人や好きな人と一緒に学園に通えるのだから、これからも男子生徒は工作活動を頑張るつもりでいる。
差し当たって、男子生徒は学園生活を思いきり楽しむ予定だ。
「リリッケちゃん…もう一度だけ、いや、あと何度か、ランチに誘ってみようかなぁ」
リリッケ・カドカ・リパティは孤児の身分では手の届かないようなお金持ちのお嬢さまだが、この学園に限ればチャンスはある。
男子生徒は一度で懲りずに、何度でも高嶺の花であるリリッケへとアタックするつもりだった。
今は期間限定の楽しい時間だ。もうすぐ、学園は混乱の渦に巻き込まれることになる。男子生徒はそれを知っている。
だから、悔いを残さずやりたい事をやり切るのだ。
【強化人士5号、あるいはアーシアンの少年】
「ねぇ、もうちょっといいだろう?」
「あん、駄目よフィフス。もうすぐ交代だから…」
殺風景な部屋の中で、柔和な外見の少年と妙齢の女性が睦みあっている。
「あなたの言うとおりに退屈な勉強も頑張ったんだ。ご褒美を頂戴よ」
「もう、ちょっとだけよ…?んんっ…」
彼女は少年の教育係だった。数か月前に前任者が辞めたあと、新しく赴任してきた先生役だ。彼女はいつのまにか少年の虜となっていた。
最初は堅物の見本のような女性だったのに。甘えて拗ねて笑顔を見せて、そんな手腕を繰り返して見せれば、すぐに少年の元へと堕ちて来た。
「ねぇ、本当に僕以外の強化人士とこういう事をしていないの?…僕、心配なんだ。あなたは魅力的なのに、僕は平凡な成績しか取れていない。他の仲間が本気になったら、あなたをすぐに取られちゃう…」
「だ、だい…じょうぶ、よ。あなた以外のだれとも、こんな、ことっ、していないわ…」
「…本当?でも僕、不安なんだ。他の仲間はみんな若い男なんでしょ?あなたの身は守れているの?…僕の他には、どんな子がいる?」
「ほ、他の子は、こんな地味な女なんて興味ないわよ。本当に、あなただけなの、フィフス…」
「………。信じられないな。こんなに魅力的なのに、僕の仲間はあなたに興味を持ってないなんて。もしかして、僕以外はみんな手術か何かで感情を無くしているのかな」
「そ、そんな訳ないわ。ただ、過酷な実験の連続だから、みんな疲れてしまっているのよ」
「そう、なの?僕の仲間、大丈夫なの…」
「フィフスは本当に優しいのね。大丈夫よ、詳しくは教えられないけど、みんなそれなりに元気でやっているわ。ねぇ、それよりフィフス…」
「あぁ、ごめんね。あなたとの会話に夢中になってた。すぐに、気持ちよくしてあげるからね…」
「ああ、フィフス…」
期待に目を潤ませている半裸の女に覆いかぶさる。男の割にほっそりとした指で愛撫しつつも、少年…強化人士5号の心は冷めていた。
この女も碌に情報を寄こさない。いや、そもそも持っている情報の数が少ない。
少年以外で担当している強化人士も、2、3人くらいしかいないようだ。
恐らく全体数はもっといる。ただこれも少年の推察に過ぎないので、正確にどれほどの強化人士が作られているかは分からない。…目当ての人物がいるのかも。
「…じゃあ。そろそろ行かなくちゃ」
「うん、また今度。会えるのを楽しみにしてるね」
まだ情事の跡が残っている熱く染まった頬をしながら、女は媚びるように少年を見上げて来た。
一応の礼儀として、彼女にキスをする。あまり深くなりすぎないように注意して、舌と舌を軽く触れ合わせる程度に留める。
「…早く会いたいな」
心にもない事を言いながら、もうそろそろこの女も交代する時期だなと冷静に思う。
少年はこのような事を繰り返していた。整った柔和な顔を武器にしながら、女性や男性の懐に入り込み、どうにか情報を得ようとしていた。
ただの実験体の身分では、それほどの手は使えない。こうやって地道に聞き出すくらいしかできない。
それが歯がゆい。
少年にはやりたい事があった。だからこの現状を打破するだけの、何かが欲しかった。
「強化人士5号、入るぞ」
次の教育係を待っている少年の元に、普段は姿を見せないペイル社の社員が入室してきた。
珍しい事に内心で驚いていると、社員は無表情に通達してくる。
「今の影武者が駄目になった。強化人士5号、次の影武者候補としてお前が選ばれた」
「………」
現状を打破するだけの材料が、向こうからやって来た。
影武者をするのなら、今よりは確実に広い世界に出られる。貰える情報も増えるだろう。
「お前の役割はつつがなく学園生活を送る事。ガンダムの機能向上に貢献する事。基本的にはこの2つだ」
「………」
「ペイル社の不利益になるようなことをせず、これを卒業までこなせたのなら、上級市民ナンバーを手配しよう」
「…上級を1人分ではなく、中級を2人分用意してくれるのなら、請け負います」
「では中級市民ナンバーを2人分、用意しよう。やってくれるな?」
「はい」
『エラン・ケレス』が卒業するまで、あと1年もないはずだ。
あと1年、耐えきれば、『僕ら』は自由になれる。
「ではさっそく外見を作り変える作業に入る。授業内容は学習していたはずだから問題はないだろうが、学園での人間関係の把握や、前の強化人士の言動なども覚えてもらう。期限は1カ月だ」
「はい」
「すぐにでも来てもらいたいが、一応知り合いに挨拶する時間くらいは儲けよう」
「いいえ、今すぐ行けます」
「…そうか、では今すぐ出掛けよう」
「はい」
返事をしながら少年は、ここに来てから引き離されてしまった唯一の家族のことを想っていた。
世話をしてくれていた叔母が死んでから、ずっと2人で生きて来た。弟のように思っている少年を。
記憶の中の彼はまだ小さい、あどけない子供の姿をしている。
今も生きているのだとしたら、少年と同じくらいまで成長しているはずだ。
いや、きっと生きている。でなければ、少年が生きている意味が無くなってしまう。
───待ってろ■■■。きっと兄ちゃんが助け出してやるからな。
期待と緊張に足を振るわせ、強化人士5号は部屋の外へと一歩を踏み出した。