ごめんねスレッタ・マーキュリー─ままごとのような生活─
アパートに引っ越してから1週間が経った。
初日や次の日はバタバタしていたが、これくらい時間が経つと新しい生活にも慣れてくる。
今のところは食事は出来合いの物を買ってきて、洗濯は一階にあるランドリースペースで洗っている。掃除はこまめにして、できるだけ清潔を保っていた。
総括すると、概ね快適に過ごせている。
自然とルーチンワークが出来上がって来たのだが、ここに来て新しい事に挑戦しようと声を上げた者がいた。
「お料理を…作ってみようと思います」
少し緊張で硬くなった声音で、スレッタ・マーキュリーはそう宣言した。
自炊をする、と簡単に言ったが。実は料理を作った記憶などエラン・ケレスには存在していなかった。
一番古い記憶はたしか、スレッタとの決闘で取り戻した誕生日を祝ってくれた女性の記憶だ。その後はずいぶんと飛んで、ペイル社の訓練生時代になる。
ペイル社では一般的な勉強の他に、宇宙空間での身の動かし方、モビルスーツの訓練、重火器の取り扱い方、その他様々な技能の学習をしていた。
ただ生活全般の知恵は教わらなかった。必要がなかったからだ。
食事など出されたものをただ胃に流し込むだけの時間で、作ろうという発想すらなかった。
スレッタも恐らく似たようなものだ。水星時代は生食品すらなかったと聞く。日常的に危険にさらされる基地で、悠長に子供が料理など出来ようはずもない。
だからエランは料理の事を口に出してはいても、どこか現実味がないままだった。
「幸い、料理器具はそろってます。包丁やお鍋、まな板だってあります」
スレッタの宣言は続いている。彼女の言葉は少しずつ力強くなっていた。
「料理の先生は、この端末です。とりあえず材料が少なく、簡単にできるものから挑戦してみます」
やる気に満ちたスレッタの瞳は、キラキラと光が瞬いているようだ。
その目でまっすぐ見つめられ、エランは何かに掴まれたように動けずにいた。
「だから、エランさん」
「………」
「お使い、お願いします」
「分かった」
こくりと頷く。
断れるはずもなかった。
この地域はエランの生家とは随分と違う物で溢れている。きちんと覚えてはいないが感覚は残っているもので、初見の物はパッと見た瞬間に分かる。理解できない物や、困惑が先に来るものがそうだ。
エランは大きな店内で、その感覚に囲まれていた。
まず薄力粉と強力粉の違いが分からない。どちらも小麦粉とは違うのだろうか。
しかも公用語で書かれていればいい方で、現地の言葉で書かれている場合は内容すらも分からない。恐ろしい事にパッケージの絵で推測するしかなかった。
端末で調べるにも限度がある。早々に音を上げたエランは、店員を呼んで助けてもらうことにした。
まだ年若い店員は随分と親切で、エランの持っているメモを見て、1つ1つ商品の説明をしてくれた。
説明の中には野菜や果物の選び方などもあった。エランは感心しつつ、ありがたく教えられたことを覚えていった。
これで次に買い物を頼まれたときはもっとスムーズに行えるだろう。それにスレッタへ今までよりも美味しい果物を買ってきてあげられるかもしれない。
エランの頭にスレッタの嬉しそうな笑顔が浮かんでくる。
大体の説明を聞き終わった後、エランは多めのチップを店員に渡して礼を言った。頭の中のスレッタに釣られるように、その顔はうっすらと微笑んでいる。
「ありがとう、ずいぶんと助かった」
「は、はい…」
喋りすぎたのだろう。少しぼんやりした様子の女性店員に、もう一度しっかりと礼を言ってから清算をしに行った。
店から出てすぐに、黒く厚い雲が空を覆っていることにエランは気が付いた。風が普段よりも湿っていて、今にも降り出してしまいそうだ。
この地域では突然の大雨が頻発する。長くは続かないが、集中的にごうっと水が落ちて来るのだ。
スレッタなどは最初に遭遇した豪雨の時にパニックになっていた。故郷の優しい雨とはあまりに違う様子に、エランも非常に驚いたものだ。
買い物袋をしっかり握ると、足早に移動を開始する。ぽつり。最初の雨粒が地面をたたいた。
エランは嫌な予感がして、咄嗟に上着を脱いで買い物袋をそれで包んだ。
体を強く叩く水がどっと降り注いできたのは、その直後だった。
「……ただいま」
「えっお帰りなさいエランさん、わっすごいビショビショです!」
玄関先にぽたぽたと雫が垂れていく。部屋に上がるわけにもいかず立ち尽くしていると、スレッタが大きめのタオルを持ってきてくれた。
エランの予想をはるかに上回る速度で雨が襲ってきたせいで、バケツの水を頭から被ったようなひどい状態になっている。
なんとか上着を脱いで買い物袋を包めたが、雨を完全に防げた訳じゃない。…中身は無事だろうか。
心配になったエランは、まずは渡されたタオルで買い物袋の表面を拭うことにした。中身もそれとなく確認して、無事だと分かるとそれ以上水滴がつかないように廊下にそっと置いておく。
「途中で降られた。なんとか買い物袋は死守したけど…」
「もう!そんなことよりエランさんですよ!」
少し怒った様子のスレッタが、相変わらず雫が滴っているエランの手からタオルを取り上げ、ガシガシと髪を拭いていった。自然と頭が下向きになりながら、突然の事に思わず体が固まってしまう。
視線の先では、眉を潜ませたスレッタが真剣な顔でエランの髪を乾かそうとしてくれている。
何だかその様子を直視できなくて、ゆっくりと目が脇へ逸れていった。
「すごい雨だから、どこかで休んでいると思ったのに…!」
「…家の近くだったから、急げば間に合うと思って。結果は、この有様だったけど」
「今度からは無理しないでくださいね」
「……うん」
スレッタは小さく畳んだタオルで、今度はエランの体をポンポンと優しく叩いてくれた。自分で拭くことも出来るのだが、この時は何となくされるがままになっていた。
何だか懐かしい思いがして、動きが鈍くなっていたのだ。
大体の水滴が取れると、エランはようやく部屋へ上がった。そのまま簡単な着替えを持ってシャワーを浴びる。少し熱めの温度にしたからか、湯を浴びたエランの心臓はコトコトと忙しなく動いていた。
人心地ついてシャワールームを出ると、スレッタが買い物袋を覗き込んでいた。
メモに書かれた品物は親切な店員のお陰ですべて揃っているはずだ。けれど自分が店でまったくの無力だったことを思い出し、何となく心配になってしまう。
「スレッタ・マーキュリー、どうだろう。抜けてるものはない?」
「すべて揃ってます。すごいですエランさん、完璧です」
嬉しそうなスレッタの言葉に、「店員に聞いたんだよ」と正直に答える。でも褒められたことは単純に嬉しかった。
スレッタはさっそく買い物袋から中身を取り出している。最初は少ない材料で、と言っていたが、エランの目には随分と種類があるように見える。
「何を作るの?」
今からだと、夕飯だろうか。
エランが聞くと、スレッタは楽しそうに「秘密です」と答えてきた。
「最初に作るのはもう決めてたんです。少しだけ難易度が高いけど、でも挑戦してみようかと思って。次からはもっと簡単なのにします」
何だか拘りがあるらしい。恐らく、よほど食べたいものなのだ。
この地域では暑さ対策なのか、辛く味付けされているものが多い。スレッタは辛いのがまったくダメという訳ではないが、それでも思う所があるのだろう。
ジャガイモやひき肉などを並べながら、スレッタはエランにお願いして来た。
「作ってる所を見られるのは恥ずかしいので、わたしが呼ぶまで自室にいてもらえませんか?」
「分かった」
スレッタが気になると言うのなら、エランに否やはなかった。素直にうなずくと、自室で端末を見ながらしばらく時間つぶしをする。
時間にして1時間と少し、いつもの夕飯の時間より少し早くエランは呼ばれた。
呼ばれてみて、目を見開く。見慣れたものがテーブルに乗っていたからだ。
「スレッタ・マーキュリー、これは…」
「えへへ、エランさん。このお料理好きですよね。毎回すごくじっくり味わってましたもん」
故郷の料理だ。ジャガイモの中にひき肉の詰まった、伝統料理。思えばこの料理を食べてから、無意識にエランは故郷を探し始めたのだった。
呆然としながら、席に着く。もう料理も食器もすべて揃っていて、あとは食べるだけになっていた。
「味見はしましたけど、完成したお料理はエランさんに最初に食べてもらいたくて、その、どうぞ召し上がってください」
「………」
少し形は崩れている。ジャガイモの粒が擦り切れず、塊として残ってもいる。けれど知っている料理だとすぐに分かるものに、エランは目を離せない。
ナイフとフォークをしっかりと持って、切り目を入れようとする。
料理に刃先が触れる直前、エランは反射的に声を出していた。
「いただきます」
それは、スレッタがいつも食前に言っている言葉だった。どうしてその言葉をいつも言うのかと聞いたことがある。彼女は食材と作った人に感謝するためだと言っていた。
有難く頂く。それを言葉ではなく心で理解しながら、改めて切り目を入れて故郷の料理を口に含んだ。
ゆっくりと噛み、ゆっくりと舌で味わう。ほんの少しだけ味が薄いだろうか。でもとても。…とても美味しく思える。
「美味しいですか?エランさん」
いつの間にか綺麗にカトラリーを扱うようになったスレッタが、伺うように聞いてくる。
エランは長く楽しんだ一口目をコクンと呑み込み、眉根を下げて笑いながら返事をした。
「美味しい。とても美味しい。…ありがとう、スレッタ・マーキュリー」
「えへへ、よかった」
スレッタが会心の笑みを浮かべる。まるで小さい子供のように無邪気な笑みだ。
けれど彼女は本物の子供じゃない。ままごとのような生活を、地に足の着いたものに変えようとしている。立派な大人だった。
「でもこれだけじゃ、さすがに夜中にお腹が空きそうですね」
心配そうにお腹を押さえるスレッタに、エランは笑いながら提案した。
「外に食べに行けばいい。夜ならそんなに人目もないし、ついでに散歩もしていこう」
「…いいんですか?」
スレッタの言葉に、しっかりと頷いて返事をする。今現在、周辺におかしな動きをしている人物はいない。闇に紛れながらの散歩なら、危険性は低いと判断した。
「君が良ければ、構わないよ。ただし、変装はちゃんとする事」
「はい、買ってたカツラ、被っちゃいます!」
アパートに引っ越してから1週間、ほんの少しずつだが物は増え始めている。それと同じように、スレッタとの思い出もだんだんと増えていくようだった。
ままごとのような、偽りの生活。僅かに何かを掛け違えば、すぐに壊れてしまうような薄氷を踏む生活。
でもこの時の2人は、まるで仲のいい家族のようで。
失ったものを取り戻せたようだと、エランはそっと微笑んでいた。