ごめんねスレッタ・マーキュリー─こぼれ話④─
※こぼれ話②のバレンタイン後のホワイトデーです。この先の本編SSのネタバレ?があります。後半ちょっと閲覧注意です。
浅めの鍋を用意する。
その中には大量の砂糖。傍らにはカップ1杯の水、そして串に刺したイチゴ。
「………」
本当にこれだけで望みのモノが出来上がるのか?…少し半信半疑になりながら、エランは砂糖へと慎重に水をかける。
頼りになるのは1枚のメモ、そして自身の記憶。あとは己が不器用でないことを祈るしかない。
事の始まりは、昨日の仕事先での休憩時間。
普段から何かと世話になっている夫人から、明日が『ホワイトデー』だと聞かされた事だった。
最初はそれが何のことだか分からずに、この地域特有の何かの記念日だろうと話半分に聞いていた。夫人の話を聞きながらも、自分とは関係のない事柄だと正直タカをくくっていた。
風向きが怪しくなったのは、あなたは何を『お返し』するのか、と直接聞かれたことだった。
いきなり水を向けられたエランは何を言えばいいのか分からず、パチリと瞬きして首を傾げた。『ホワイトデー』という単語も初めて聞くのに、『お返し』というのは一体何のことなのか、正直見当もつかなかった。
他人にはただボーっとしているように見えるようだが、観察眼の鋭い夫人はエランの反応を見てすぐに察してくれた。『ホワイトデー』の事を知っているかどうか、その場で聞いてくれたのだ。
もちろんエランは知らないと答えた。嘘を付く理由がないのだから当然だ。
そんな自分を馬鹿にすることなく、優しい夫人は『ホワイトデー』という日がどういうものかを分かりやすく教えてくれた。
そうして、エランは自分がどれほど常識知らずだったのかを痛感することになる。
驚くべきことに、スレッタ流のバレンタインはこの地域ではスタンダードなものだった。
───女性が男性にチョコを贈る。
憎からず思う異性にプレゼントを贈る日、という共通項はあるものの、それはエランの常識から外れた行動だった。
しかし、ふたを開けてみればズレていたのはエランの方だったようだ。
2月14日に女性が男性にチョコを贈る。贈られた男性は3月14日に女性にプレゼントをお返しする。
それがこの世界の常識だった。
水星だけの独自の風習だと思い込み、ろくに調べもしなかった事をエランは恥じた。…そしてゾッとした。
夫人が偶然『ホワイトデー』の話題を出してくれなければ、自分はスレッタに記念日を無視するというとんでもなく酷いことをするところだったのだ。
恐らくスレッタは怒る事はないだろうが、それで彼女が傷つかないという訳ではない。
エランはこの幸運に感謝しながら、夫人から何を贈ればいいのかのアドバイスをもらった。少し休憩時間が長引いてしまったのは、仕方がないことだと思っている。
そして現在、エランは砂糖水を煮詰めた鍋を真剣な表情で眺めている。
弱めの中火で10分ほど、少し色が付くまでそのままにする。
エランは言われた通り、ぶくぶくと気泡が出ては弾けていく様を、ひたすらに眺める。
途中で混ぜ合わせてしまいたい欲求が出て来るが、これはしてはいけないと強く言われている。どうやら結晶化して上手く飴にならないらしい。
そう、エランは飴を作っていた。この辺りでべっこう飴という名前がついた、素人でも手作りができる飴だ。
最初は既製品を買おうと思っていた。けれどスレッタが手作りチョコを作ってくれた話をしたところ、こちらも手作りのお返しをしたらどうかと夫人がレシピを教えてくれたのだ。
それもただの飴ではなく、女の子が好きそうな特別仕様のものだった。
親切な夫人に感謝を捧げること10分。ほんのり色が付いてきた砂糖水…飴の元を火から遠ざける。
あらかじめ用意していた串に刺したイチゴを飴の元にくぐらせる。もったりとしているかと思ったが、意外とさらりとした感触が手元に伝わってくる。溶けたガラスのような飴によって、キラキラとイチゴが飾られていく。
薄く付けた方が美味しいという事なので、余分な飴はくるくると回して落とし、シートの上に置いて工程は完了だ。
あとは自然と熱が取れて固まってくれる。……はずである。
とりあえず本当に固まるのかという疑問は置いておいて、残りのイチゴもすべて飴でコーティングしてしまう。
作業自体は本当に簡単で、1つも失敗することなく、つやつやと輝くイチゴ達はすべてシートの上に並べられた。全部で10粒ほどだ。
残りは普通の飴にしてしまう。飴の元をシートの上に垂らし、固まる前に小さな串を置いておく。こうすると固まった後に、串の部分を手に持って飴を舐められるらしい。
作業時間は30分も掛からずに終わってしまった。あれだけ心配していたのは何だったのだろう。
それでも失敗していないとは限らない。エランは最初にくぐらせたイチゴの串を手に取ってみた。イチゴ…いちご飴は、パリッという微かな音と共にシートから剥がれて、艶やかな姿を目の前にさらしている。
感触的には固まっているようだと、エランはホッとしながら口に入れてみる。あとは味見して、問題なければスレッタにプレゼントできるだろう。
「あれ、エランさん何してるんですか?」
「んむッ、…っ、……!?」
突然の声にびっくりして強く噛んでしまう。バリバリという大きな音が口の中から聞こえて来て、同時に瑞々しい果汁が口の中に溢れてくる。
美味しい。成功だ。…でもそれどころじゃない。
口元を手のひらで押さえながら振り返ると、スレッタが不思議そうな顔でこちらを見ていた。
今日のスレッタは家庭菜園で種まきをすると言っていて、ついでに散歩もしてくると楽しそうに笑っていた。だから1、2時間は猶予があるとエランはすっかり思い込んでいた。
まさかこんなに早く帰って来るなんて。
焦りながらも何とか音がしないようにそっと噛んで、イチゴを出来るだけ静かにこくりと呑み込む。
「………おかえりスレッタ」
「あ、はい。ただいまですエランさん」
「………」
「あの、美味しそうな匂いがしますけど、何か作ってたんですか…?」
気を使ったスレッタに先に問われてしまう。本当はきちんといちご飴をラッピングして、スレッタに一番に食べてもらうつもりだったのに…。
作ったいちご飴はテキトーに切られたシートに直に置かれ、しかもエランが先に食べている姿をプレゼントする本人に目撃されている。
味見なのだが、つまみ食いを見られたような気まずさを感じる。
「…バレンタインの、お返しを作ってた。その、きみにチョコを貰ったから、お返しに」
しかしいつまでも黙っている訳にはいかない。もたつきながらも、きちんとスレッタに今の行動の理由を教える。
「ホワイトデー。飴とイチゴは、どちらも…こ、恋人、に、贈るにはいいと聞いたから」
改めて口に出すととてつもなく照れるが、エランはきちんと言い切った。自分と彼女がそういう関係になっただなんて実は未だに実感が湧かないのだが、それはそれだ。
どこかフワフワとした心地で告げると、スレッタがエランの胸に嬉しそうに飛び込んできた。
「エランさん、エランさん、わたし、とっても嬉しいです」
「う、ん」
僕も嬉しい。そうひっそりと答えながら、エランは自分に幸せを与えてくれる大切な存在をぎゅうっと腕の中に閉じ込めた。
しばらくそうしてお互いの体温を分け合いながら、顔を見合わせて笑いあう。
幸せだ。本当に。
「エランさん、このイチゴですけど、ひょっとして何かかけてあります?ピカピカしてます」
「うん、飴をかけてあるんだ。今はもう固まってると思うけど、砂糖を煮詰めて作ってみた。…よければ、食べてみて欲しい」
興味深げにいちご飴を見ているスレッタに向けて、面映ゆい気持ちで説明する。すでに現物を見られている以上、ラッピングは今更だろう。
どれを食べようか迷っているスレッタの様子を、どきどきしながらエランは見守る。自分が食べても美味しく感じたのだから、甘い物…とくに果物が好きな彼女はきっと気に入るはずだ。
でもとても緊張する。喜ばしいような、逃げ出したいような、変な気持ちだ。
1カ月前の彼女もこんな気持ちだったんだろうか…。チョコレートを作ってくれたあの日のスレッタに思いを馳せていると、目の前の彼女はようやく1本の串を手に持った。
そのまま口に運ぶのかと思えば、イタズラを思いついたような表情を浮かべてエランに串を渡してくる。先にはいちご飴がついたままだ。
「エランさん。バレンタインの時は、わたしがチョコ、食べさせましたよね?」
「?…そう、だね」
今思えばどうしてそんな事をしてもらったのか、落ち着いて手を洗うくらいできなかったのか。あの時の自分に言いたいことは山ほどあるが、事実であるため頷くしかない。
「だから、お返しを所望します。食べさせて、ください」
「え」
可愛い彼女は上目遣いでそう言って、あーんと口を開けてくる。一時期スレッタのために介助をしたことがあったが、あの時よりも明確に甘えられている。
狼狽えていると、エランの袖をつんつんと引っ張って催促してくる。
とりあえずは、彼女の望みを叶えよう。エランは串を刺さないように、慎重にスレッタの口に近づけてみる。
いちご飴を目で追っていたスレッタは、近づいてきたそれをぱくりと唇に迎え入れた。引っ張られる感触が、串からエランの手に伝わってくる。
「いただきましゅ。…ん、そのまま持っててくだひゃい」
「………」
彼女がもごもごと喋るたび、唇の動きがやはりエランに伝わってくる。
そのままパリパリと音をさせながら、スレッタはいちご飴を咀嚼しだした。唇と、歯と、舌と、口内の動き。…そのかんしょくも、ぜんぶわかってしまう。
エランは頭が真っ白になりながらも、串から通して伝わるスレッタの口内の様子を、余すところなく知ってしまった。
「んん、おいしーれす。…エランさん、もう一個お願いします」
「………スレッタ、危ないから、串からいちごを抜いてから食べよう。そうしよう」
「そうですか?エランさんがそう言うなら…」
「うん、危ないから」
連呼するエランの頭には、やはり1カ月前のことが過ぎっていた。ブランデー入りのチョコを食べて頭が茹だった自分は、あろうことかスレッタの口内に舌を入れてしまったのだ。ほんの少しではあるが、確かに入れた。
そういうキスがある事は、知っている。
知っているが、自分たちにはまだ早いと思っていた。それなのに、してしまった。
素面に戻ったエランはいたく反省し、その後スレッタが半泣きになるまでお休みのキスすらしなかった。その事をなぜか今思い出した。
目前のスレッタは無邪気に次のいちご飴を待っている。エランは震える手で串から外したいちご飴を彼女の口に近づけていった。
ぱくり。次のいちご飴もスレッタの口内に消える。ただ今回は串がないので拍子抜けするほど簡単だった。
なんだ、これなら大丈夫だ。
ほっとするエランに、パリパリと音をさせながら美味しそうにいちご飴を食べていたスレッタがにっこりと微笑んだ。
「エランさん、わたしもお返しします。受け取ってください」
「え?…んっ」
なんだろう、と思ったエランの首に腕を回して、スレッタが口づけてくる。
お礼のキス、だろうか。
反射的に腰に手を回して支えると、スレッタは更に唇を押し付けてきた。いちごと飴の甘い匂いが漂ってくる。
次の瞬間、普通のキスだと思っていたエランの唇を、温かく湿った何かが触れてきた。
「んっ…!」
驚いて離れると、スレッタはエランの胸に寄りかかりながら、不満げに唇を突き出していた。
「エランさん、口を開けてくれないと、大人のちゅーが出来ないじゃないですか」
「な…な…」
まさかそんな事をスレッタが仕掛けて来るとは思わず、エランは戦慄くことしかできない。
そんなエランの様子をじっと見ながら、スレッタは口を開いた。
「バレンタインの時には、エランさんだってしたじゃないですか」
「そ、それは、酔っていて…」
「エランさんだけ、ずるいです」
「………」
「それに、わたしたち、練習が必要だと思うんです」
「れ、練習…?」
「そうです。モビルスーツの操作も、宇宙遊泳も、お料理だって、練習すればうまくなります」
「そう、だね…?」
「恋人同士の事だって、練習すればきっとうまくなります」
「………」
「だから、エランさん」
「………」
「大人のちゅう、練習しましょう?」
とりあえず、いちごの味がなくなるまで。
スレッタが口を開く。絡ませるのだから当然だ、というように、彼女の舌が無防備に眼前に差し出される。
エランはこくんと喉を鳴らし、スレッタの舌を凝視してしまう。
そんな自分の様子を見ながら、彼女は駄目押しのように舌をひらめかせて囁いた。
「エランさんが…欲しいんです。…わたしで練習、してください」
そのあまりの言いように、とうとうエランは陥落して、誘い込まれるようにスレッタの唇に食らいついた。
唾液でつやつやと輝いた、いちご飴のような舌を味わうために。
その後、本物のいちご飴は、少し時間がかかったがきちんと二人の腹に収まった。
どれくらい時間をかけたのかは、二人だけの秘密である。
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