こぼれ話(七夕)
湿気を含んだ風が前髪をくすぐる。
何となく誘われたような気になって、エランは雲に覆われた空を見上げた。
先ほどよりも雲の色が濃くなり、流れも早くなっている。風の匂いも土や草が混じっていて、すぐにでも雨が降りそうだ。
この地域は少し前に『ツユイリ』と言う季節に入った。以前エラン達が住んでいた地域の雨季のようなものだ。
エランは読みかけの本を閉じて一口麦茶を飲むと、サンダルに足を引っかけて縁側から庭に出た。外とも室内とも廊下とも取れない不思議な場所である縁側は、最近のエランのお気に入りだ。
物干し竿に洗濯物が掛かっていない事を確認すると、そのままスレッタの家庭菜園へと歩いていく。
彼女は作業に夢中になる事があるので、気付いた時にはこうして注意するようにしている。以前は少しの雨だからと長い間作業していて、結局は全身が濡れてしまった事があった。
案の定だ、大きな麦わら帽子が土に向かって作業していた。
「スレッタ、雨が降りそうだよ」
エランが声を掛けると麦わら帽子がひょこりと上がり、笑顔のスレッタの顔が出てきた。
「エランさん、ありがとうございます。ちょうど終わりにしようと思ってたところです」
刈った雑草を袋に詰めて、スレッタがふぅと息をつく。最近は朝早くに収穫して、休みの日の午前中に草刈りをするルーチンワークが出来上がっていた。
以前はエランもよく手伝っていたが、スレッタが小まめに管理しているお陰で家庭菜園は綺麗な形に保たれている。
スレッタは雑草の入った袋をブンブン振りながら、楽しそうにこれからの予定を話し始めた。
「雑草を使って堆肥が作れると聞いたんです。今度試しに作ってみようと思います」
「何だか本格的だね」
「上手くいくか分かりませんけど、そんなに手間もかからないらしいですよ。材料も無料で手に入るものばかりみたいなんで、やり得です」
逞しくも頼もしい事を言うスレッタの首筋に、一筋の汗が流れていく。エランは彼女の首にかけたタオルでそれを拭いながら、「作る時は僕も手伝わせてね」と微笑んだ。
…ポツリ、雨が降ってくる。
エランは縁側からそれを眺めながら、だんだんと聞こえ始めた雨音をBGMに、本のページをぱらりと捲った。
今読んでいるのは学生時代に読んでいたような哲学書ではなく、ごく一般的な娯楽小説だ。面白ければスレッタに勧めることもある。
贅沢な時間の使い方をしていると、とん、とん、と雨音に混じってスレッタの足音が聞こえてきた。
顔を上げたエランに、お盆を持ったスレッタがイタズラな顔をして笑いかけてくる。
「エランさん、お昼ですよ。せっかくなので、ここでピクニックしましょう」
「縁側で食べるの?」
ビックリするが、同時にスレッタの発想を面白くも思う。
お盆の上を見てみると、白くて細い麺が乗っている。最近食卓によく登場するようになった『ソーメン』だ。
「最近見たアニメに、縁側で食べるソーメンの話があったんです。美味しそうで楽しそうだったんで、つい真似しちゃいました」
「へぇ、縁側でピクニックなんて、何だかいいね。ソーメンも美味しそうだ」
つるりと食べられるソーメンは、暑くて湿気がある日にはピッタリだ。エランは本を仕舞いながら、スレッタの選択に感心していた。
小さな折り畳みテーブルをセットして、その上にお盆から取り出した麺やつゆを出していく。おかずも薬味もたくさんあって、まるでディナーのような豪華さだ。
「「いただきます」」
2人で同時に挨拶して、ソーメンを口に入れる。まずは素のまま、次は薬味を入れて味わう。ネギやシソの風味が爽やかで、採れたてのきゅうりの千切りはシャキシャキとして楽しい。
何口かソーメンを食べて満足した後、ようやくおかずに手を出していく。
おかずの大半は豪華なテンプラだ。この暑い中わざわざ揚げてくれたらしい。揚げたての衣はサクサクとして、めんつゆとの相性は抜群だった。
最初のテンプラはほんの少しめんつゆを付けて味わって、次は半分くらいをめんつゆに付けて、その次は…。
そんな風にいくつかのテンプラを食べた後は、めんつゆの表面にはゆらゆらと油が揺れていた。もう一度ソーメンを食べると口の中がさっぱりして、同時に先ほどよりも味が深まっているのを感じる。
美味しくて、楽しくて、最高のランチだった。
少し多めに茹でてくれていたらしいが、2人ですべて食べてしまった。
「「ごちそうさまでした」」
やはり2人で同時に挨拶して、しばらく縁側で食休みをする。食事に集中していて聞こえていなかった雨音が、再びざぁっと聞こえてきた。
「いつもスレッタの食事は美味しいけど、何だか今日は特に豪華だったね」
麦茶を飲みながら雑談をする。今日は何かの記念日だったか、頭の中で考えるが何も思い浮かばない。
「今日はソーメンを食べる日だって聞いたんです。7月7日は『七夕』ですからね」
「ああ、『七夕』…。工場で細長い紙をもらって書いたっけ。すっかり忘れてた」
先日出勤したときに大きな笹が置いてあったのを思い出す。何事かと思ったのだが、日本の風習を忘れないようにする地域の試みだったらしい。よく分からないままに願い事を書かされて、上の方につるされてしまった。
本来は7月7日…つまり今日、のお祭りらしいが、ちょうど休日にぶつかるので工場では少し早めに用意してくれたようだ。
「この辺りの風習みたいですからね。わたしも絵本で初めて知りました」
「織姫と彦星…。ベガとアルタイルだっけ。昔の人は面白い事を考えるよね」
「でも素敵な物語です。あんなに離れていても想い合えるなんて」
スレッタが空を見上げる。生憎と天気は荒れ模様で、夜に晴れるかは分からない。
お互いが恋に溺れたせいで、引き離された織姫と彦星。彼らが出会えるのは一年に一回。それも天の川が氾濫していない晴れの日だけだ。
けして羨ましいとは言えない関係だ。けれど、そんな2人の物語を素敵だと言いながら、スレッタはキラキラした目で空を見ている。
「………」
何だかエランは胸がもやもやとして、憧憬を滲ませるスレッタの瞳をこちらに引き戻したくなった。
「僕は離れるなんて嫌だね。もし離されそうになったら、きみを攫って逃げるよ」
エランが言葉を言いきる前に、スレッタの碧の目はこちらに振り向いてくれた。ハッとしたような表情をしている彼女を見ていると、エランは堪らない気持ちになる。
スレッタの柔らかい頬を手のひらで覆って、そのままゆっくりと口づける。最近はこんな風に、簡単にスイッチが入ってしまう。
でも彼女も嫌がらずに、受け入れてくれるから…。
「食休み、終わりですか…?」
雨音に紛れるような、小さな囁きが唇をくすぐる。
「ん、終わりにしたい。……いい?」
甘えるように言うと、エランの織姫はこくりと頷いてくれた。
「…雨、やみましたね」
「そうだね」
縁側で戯れ合ったあと、こちらに体重を預けるスレッタを支える。ほんのりと赤くなった彼女の首筋から、一筋の汗が流れている。
エランは指先でそれを拭いながら、スレッタの声に導かれるように空を見上げた。
いつの間にか太陽が顔を出し、雨上がりの雫がキラキラと光を弾いているのが見える。
「織姫と彦星、会えるでしょうか?」
「どうだろう。あとで天気予報見てみる?」
「んもう、エランさん」
わざと情緒がない事を言って、スレッタを軽く怒らせてみる。しばらくじゃれ合って、そうしている内にまた2人で縁側に倒れ込む。
「罰として、エランさんは腕枕の刑です」
「分かった。僕もお昼寝していい?」
「仕方ないですね」
お互いが横になれば、もうお互いの姿しか目に入らない。エランはスレッタの赤い髪に顔をうずめながら、ゆっくりと目を閉じていった。
天の川に隔てられた、織姫と彦星。彼らはお互いに夢中になっていたせいで、離れ離れにさせられた。
でも自分たちは、そうではない。これからもずっと、一緒にいられる。
エランは織姫と彦星にほんの少しだけ優越感を感じながら、スレッタと一緒に眠りに落ちた。