こぼれ話(バレンタイン)

こぼれ話(バレンタイン)


※最終回後のバレンタイン、ちょっとだけ閲覧注意




「ただいま」

 今日も一日の仕事を終えたエランは、仕事で汚れた体に辟易としながらも帰宅の挨拶を告げた。

 今日は調子の悪い機械の修理をしたので、黒い油が体の所々に付いてしまっている。これではすぐにでも風呂に入らなければ、おちおちスレッタのそばにも近づけない。

 玄関で安全靴を脱ぎ、家用の靴に履き替えようとしたエランは、ふと甘い香りが家の中を漂っているのに気が付いた。

 これはチョコレート…だろうか。

 普段そんなに菓子を食べないが、チョコは非常食としても優れている為、いくつかは家や仕事場にも常備している。だがこんなに匂いが充満するほどに、大量のチョコがあっただろうか…?

 頭に疑問符を浮かべていると、パタパタと忙しなく足音を立てながらスレッタが玄関まで迎えに来た。彼女が近づくと、更にチョコレートの匂いがふわりと香る。

「おかえりなさいっ!エランさん!」

 スレッタがいつもより元気に挨拶してくれる。心なしか頬も紅潮し、嬉しそうだ。

「ただいま、スレッタ」

 改めて挨拶をして、さりげなくスレッタの姿を観察する。エプロンを付けて髪を纏めている様子から、お菓子作りでもしていたんだろうと予想する。

 何かしらを作る過程でチョコを溶かしていたのなら、この充満した甘い匂いも納得できる。彼女が暴食していた訳ではなさそうなので、エランはひっそりと胸をなでおろした。

 最近は生活にも余裕が出てきたため、家具やら嗜好品やら、細やかではあるが少しは贅沢も覚え始めている。お菓子作りもその一環だろう。

 スレッタは何だかエランに言いたいことがあるようにモジモジしている。きっとお菓子作りが上手くいったと報告してくれるに違いない。

「あ、あの…エランさんっ」

「…うん」

 可愛いな、と思いながらスレッタの言葉を待つ。スレッタはエプロンを少しの間こねくり回すと、意を決したように声を出した。

「今日は、バレンタインなので!チョ、チョコを作っちゃいました!」

「え」

 ばれんたいん。

 エランはすっかり忘れていた。そういえば、そんな催しがあるのだった。…まずい、何も用意していない。花屋は開いていただろうか。いや、開いているはずだ。バレンタインなのだから。

 心の中で冷汗を流しているエランを余所に、スレッタは一生懸命喋っている。

「初めてにしては、けっこう上手くできたと思うんです。エランさんは、普段甘いものは食べないから、少し甘さを控えて、ちょっとブランデーを足したりして」

「………」

「あ、余計な買い物はしてませんよ!今回は型を使わないチョコでして、ブランデーもお料理や飲み物に使えるし、作り方も、とっても簡単で」

「………」

「で、でも、一生懸命作ったので、エランさんに食べてもらいたくって」

「………」

「…あの、エランさん、食べて…くれますか?」

「うん。頂くよ」

 まだ混乱からは立ち上がってはいなかったが、エランはしっかりと頷いた。チョコとバレンタインの関連性は分からないが、とにかくスレッタが自分の為に作ってくれたのは分かったからだ。

 まずは風呂に急いで入って、花屋へ行って店員に何か見繕ってもらおう。そして夕飯の後に花を贈り、チョコを二人で食べるのだ。それがいい。

 この後の計画を即興で立てていると、スレッタは本当に嬉しそうにえへへと顔に手を当てて笑っていた。

「夢、叶っちゃいました。バレンタインの、手作りチョコレート」

「それって、『やりたいことリスト』の?」

「はい。コミックでよく出てたんです。バレンタインに、手作りのチョコレートを贈るって」

「花じゃなくて、チョコなの?」

 普通は男性が女性に花を贈る日ではないのだろうか。

 そう思いながら聞くと、スレッタはきょとんとした目でエランを見てきた。

「え、バレンタインにはチョコレートですよね?女の子が、友達や男の子にチョコをあげる日ですよ」

「?…そうなんだ」

 水星では、そうなのだろうか。確かに水星の採掘師には花なんて買っている余裕はなさそうだ。高カロリーのチョコを贈るのも納得できる。

 おそらく長い年月を経て、段々と様相が変わっていったのだろう。女性がプレゼントする側になるなんて、その最たるものだ。

 友達にも贈るということなら、日ごろの感謝を示す日、というように意味合いも変わっているのかもしれない。

「チョコは後で頂くよ。まずはお風呂だね、仕事で汚れてしまって」

「もう沸かしてありますよ。すぐに入れます」

「ありがとう」

 気が利くスレッタに感謝して、エランは浴室へと向かっていく。スレッタは着替えを用意して付いて来てくれた。脱いだ服をすぐ洗濯してくれる気なんだろう。

「エランさんは、バレンタインにチョコを貰ったことありますか?」

「ないよ」

 体を綺麗にしたら、急いで花を買いに行かなければ。エランは脱衣所の扉を開けた。

「…あの、本当にないですか?…一度も?」

「まったくないね」

 脱衣所に着替えを置いてくれながらスレッタが聞いてくる。彼女はずいぶんとチョコに拘りがあるようだ。何度も念押ししてくることに首をかしげてしまう。

 スレッタはどこか納得していない様子を見せながら、脱衣所を出て行った。

 花を贈るときには本来の意味を教えてあげよう。照れながら受け取ってくれるスレッタの姿を想像しながら、作業着の上着を脱いでいく。

「じゃ、じゃあ、告白を受けた事もないんですか?」

「うん?」

 話はまだ続いていたようだ。スレッタの言葉に、シャツを脱ぎ捨てたエランは顔を上げた。

「チョコを渡されてないなら、こ、告白とか、なかったんですよね?」

「………」

「エランさん、何とか言ってください!」

「あの、スレッタ」

「はい」

「バレンタインにチョコを渡す意味って、何かあるの?」

 ここに来て、エランは何か違和感を感じていた。てっきりスレッタの言うバレンタインは父の日や母の日のような、言うなれば知人に感謝を示す日のようなモノだと思っていた。しかし、この口ぶりは…。

「そ、そんなの、バレンタインに女の子が男の子にチョコを渡す意味なんて、愛の告白に決まってるじゃないですか!」

「!!」

 その言葉を聞いた時、エランは上半身裸にも関わらず脱衣所の扉を開けていた。何も考えておらず、ほとんど反射での行動だった。

「ひゃわッ!エランさんっ!?」

「食べたい」

「へ」

「今すぐ食べたい」

 夕食なんて待っていられないとばかりに、気付けば我が儘を口に出していた。


「あの、どうぞ…」

「ありがとう」

 あの後すぐにスレッタは台所へ行き、小皿に乗せたチョコレートをエランの元に持ってきてくれた。

 汚れた姿で台所へは行けない、しかし今すぐチョコを食べたいと悩む姿を見て、スレッタが甘やかしてくれたのだ。

 小皿の上には丸めたチョコが何粒も乗っている。表面にはココアパウダーがまぶしてあり、素人目にもただ溶かして固めただけの代物ではないと分かる。

 小皿をずいと差し出すスレッタに、エランは感動しながら口を開いた。

「ごめん、食べさせて欲しい」

 手ぐらい洗えば良かったかなと思ったが、目の前に差し出されてはもう我慢できなかった。


「あ、そ、それじゃあ…」

「ん…いただきます」

 スレッタの細い指に摘ままれた一粒のチョコを、口を開いて受け入れる。

 途中で唇に挟んでしまったが、スレッタの指が食べやすいように口の中へそっと押し込んでくれた。ひんやりした指の腹が唇に触れてくすぐったい。

 歯で噛むと、パキリと音を立てて外側のチョコが砕け、中から柔らかい甘さが溢れて舌を包みこんだ。鼻からブランデーの芳香が抜けて、辺りに香る。

 エランは満足そうに目を細め、スレッタの手作りのチョコを存分に舌で味わった。

「どう…ですか」

「美味しい」

 本当に美味しい。普段は板状のチョコしか食べないが、これは家に置いてあったら常食してしまうかもしれない。それくらい美味しい。

 もっと、というように口を開くと、追加でチョコが差し込まれてくる。エランは丁寧にすべてを咀嚼し、小皿の上のチョコをぺろりと平らげてしまった。

 もうないのか、と残念に思いつつ、名残惜し気に唇に付いたパウダーを舌で舐めとる。行儀が悪いが、ほぼ無意識だ。

 スレッタはそんなエランをぼんやりと見ていた。指の腹には、舐めとった唇と同じようにパウダーが付いている。

 これもほぼ無意識に、エランはスレッタの指に唇を付けていた。ちぅ、と音がするまで吸い付くと、ピクリと指が震えて逃げていく。

「あああ、あの…っ」

 気付くと顔を真っ赤にしたスレッタが、わたわたとしながら涙目になっていた。

 スレッタの赤色が何だかとても美味しそうに見える。チョコレートを食べてから腹にぽかぽかと熱が溜まっていて、その熱を分けてあげたい気分になった。

「スレッタ」

「はい、ぁ…んっ…」

 顔を傾けて、スレッタに口づける。いつも寝る前に表面を触れ合わせるだけだが、今日は少しだけ口を開いて彼女の唇を優しく食んだ。

 しばらくそうしていると、苦しくなったのかスレッタが少し唇を開く。無防備になった口内に舌を差し込んで粘膜を味わうと、エランはすぐに唇を離した。

「ふぁ…」

「ごちそうさま、美味しかった。…また、食べたい」

 顔どころか、首筋すらも真っ赤に染めたスレッタに告げると、エランは脱衣所へと引き返した。

 早く体を綺麗にして、スレッタに贈る花を買いに行きたい。スレッタの首筋のような、スレッタの唇のような、真っ赤な花を。

 口内に残るチョコの味に、腰が抜けたように座り込むスレッタの事も知らず、エランは上機嫌にこれからの事を考えていた。


 ブランデーが効きすぎて酔っているのだと発覚するのは、もう少し後の事だった。






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