くらやみのひかり

くらやみのひかり

不審者x号



 久しぶりだな、と告げる低い声。

 グエル先輩、と昔のようについ言いそうになって慌ててCEOと言い直そうとしたら、「構わない」と存外に穏やかな声で、少し笑ったようだった。

 香水だろうか。針葉樹の森を思わせる匂いが流れて、ごくわずかに椅子の軋む音がした。


 学園テロで重体になり、目が覚めて視力を失ったことを知った。以来私はこの病院から出たことはない。両親以外の誰かに会うのも稀だったから、今自分がちゃんと目の前のひとに会っても恥ずかしくないかどうか自信がない。それでも会いたい、と両親に懇願して叶えてもらったのだから、せめて惨めな気持ちだけは気づかれなければいい、そう思った。

 自分の近況は変化が少なくて、話すことがあまりない。自然、話題は彼や寮の仲間たちの近況や、今の会社の仕事のことが多くなった。

 けれど他愛のない時間は瞬く間に過ぎる。今何分か、と手元の端末を押す。音声が告げる時刻に焦った。久しぶりの世間話は楽しかったけれど、そのためだけに彼に会いたかったわけじゃない。覚悟を決めよう。


「あの」

「なんだ」

「最後に、お顔を…よく拝見しても良いですか」


 きっと彼は怪訝な顔をしただろう。伺うように、私はそろそろと両手を伸ばした。

 すぐに意図を察したのか、大きくて厚い硬い手が、包むように私の手を取る。

 頬がかっと熱くなって、心臓の鼓動が早くなるのがわかった。気づかれただろうと思いつつ、でも自分でも見えていないのだから気づかれていない、そういうことにして長い指に導かれるままに手を伸ばす。

 指先がさらりとした肌に触れる。手首に添えられた指よりも少し冷たくて、そっと押すと柔らかく力を跳ね返す。包み込むと、しっとりとした温度が掌に伝わってくる。腕を伸ばしてその向こうを探って、顎の付け根からおとがいまでの輪郭を辿る。

 そこでやや戸惑う。けれど微動だにしない彼に、許されているのだと念じつつ口の端、そして唇へと触れていった。頬よりもずっと柔らかい唇は少し荒れていて、きっと忙しいのだろうと些かの申し訳なさとともに切なくなる。微かな吐息が指先を掠めて、また自分の心臓が煩くなった。

 万が一傷つけないようにと、鼻先を見つけてからすっきりとした鼻梁をなぞる。つるりとした眉間を通り過ぎて、緩やかな稜線を描く眉を撫でてから、ふともう一度指を戻して確かめた。

「どうした」

「いえ、なんでも」

「そうか」

 私の相槌を確認しながら話す彼の声からは、以前の獅子のような苛烈さは感じられない。思考の淵に深く沈み、そこから丁寧に取り出すように言葉を選ぶ。脳裏をいくつかの噂話が過ぎて、きっとこちらが本来の彼に近いのかとも、感じる。

 眉間に皺を寄せて、眉を吊り上げて周囲を威嚇していた彼はもういない。

 急に胸が締め付けられるように苦しくなる。けれど時間ももうきっと少なくて、再び指を両側に進めて形の良い耳殻の位置を確かめる。より一層慎重に、位置を辿って右頬の、下瞼の辺りに指を伸ばしたけれども、そこにあるはずの記憶に辿り着けない。

 思わず自分が息を吐いたのが先か、自分の指に彼の指が添えられたのが先か。

 呼吸の止まった私に、至近距離から低い声がかかる。悪戯小僧のような響きを持って。

「探し物はこれか?」

 重ねた指の下、滑らかな肌の上、そこだけわずかに膨らむ、小さな。


 灰色の記憶に、鮮やかに色が蘇る。

 褐色の頬の上辺にそっと添えられた泣き黒子。

 長い睫毛に縁取られた深い青。

 時折その青の上を掠める、蘭のように華やかな色の前髪。

 翻る白、獅子の鬣。


 ──私の恋。私の、光。


 少し硬い指先に目元を拭われて、自分が泣いていたことを知った。

 嗚咽を上げる私を、彼はただ黙って背を撫でてくれた。そうして私は、もう二度と見えないものと、どうしてももう一度見たいもののために、泣いた。




「損傷の程度によっては、脳内に残った破片を取り除いても視力が回復しない可能性があります。また、最善を尽くしますが極めて難しい位置です、術中に死亡する可能性も──」

 あの面会の数日後、私は担当医師と向かい合っていた。

 これまでに何度も聞いて、その度に絶望するだけだった説明を、今度は噛み締めるように聞く。震える手の中にあるタブレットには、おそらく『手術同意書』と表示されているはずだ。

 今日こそ、そこに、サインをしよう。

 もう一度、今のあのひとに会うために。


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