「くちづけ。(後) #才羽ミドリ」

「くちづけ。(後) #才羽ミドリ」


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 本当は分かってた。

 私の初恋は実らないって。


 だって、先生にとって私たちは、ただの「生徒」でしかなくて。

 どれだけ私たちのことを大切に想ってくれたとしても、それは決して恋愛感情じゃない。

 そんなことくらい、とっくに分かってた。


 それに、もしも私たちの中から誰か一人を選んでくれるのだとしても……それが私である可能性なんて、きっと1パーセントもない。


 当たり前だよね。

 だって先生は、このキヴォトスのみんなの先生だから。

 先生はいつだってたくさんの女の子に囲まれてて、その中には当然、私みたいに先生のことが好きな女の子だっていっぱいいて。

 ……私なんかじゃ敵わないような魅力的な子だって、珍しくもなんともなくて。


 そして、何よりも、誰よりも、

 私が知ってる中で一番、先生の近くにいたのは、きっと……


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 私もユウカもひとしきり泣いて、ちょっとだけ落ち着いた後。

 ユウカと並んで遊歩道のベンチに座っていた。


「……ファーストキスに憧れてたの」


 長い沈黙の後で、ぽつりとユウカが口を開く。


「らしくないって思うでしょう? でも、子供の頃からの夢だったんだ。初めてのキスは初恋の人とロマンチックに、って。……おかしいわよね。バカよね、私。そんなの……私みたいな冷血女に似合うわけないのに」


 悲しげに笑うユウカには、普段の気丈さの欠片も残ってなくて。儚くて、今にも壊れちゃいそうで、見てられなくて……ズキリと胸が痛んだ。

 それでも、首を縦には振れなくて。


「そんなこと、ないです」

「え?」

「だって、ユウカは冷血女なんかじゃないし、それに……ファーストキスを夢見るのは女の子の特権ですから」


 だから、ユウカにロマンチックなキスが似合わないだなんて全然思わない。

 ……いつも「悲しみも怒りも全て因数分解してやる!」なんて言ってるユウカにしては、確かにちょっと意外な夢だったけど。でも……

 好きな人とのキスに憧れる気持ちは、私にだって痛いくらいに分かってたから。


「……ありがと。やっぱりミドリは優しいね」


 俯きながら、ユウカはまた、ぽつりぽつりと喋り始める。


「ミドリの言う通りよ。私、先生のことが好きだった……ううん、今でも好きだよ。大好き。どんな目に遭ったって、この気持ちだけは誰にも変えられない」

「……ユウカ」

「だから、初めてのキスの相手は先生と──って、ずっと思ってた。生まれて初めて好きになった人に、私の初めてをあげたかった。……もう、二度と叶わなくなっちゃったけど」


 ユウカはまるで自嘲するみたいに弱々しく笑って。でも、私は全然笑えなくて……ふいにユウカが顔を上げて、私に訊ねてくる。


「ねえ、ミドリ。ミドリは先生のこと、好き?」

「え……」


 ほんの一瞬戸惑って、だけど答えなんて分かり切ってた。私はユウカの目をしっかりと見て、心からの気持ちを口にした。


「……好きです。大好きです。この気持ちだけは絶対に誰にも負けません。きっと、ユウカにだって」

「そっか。それじゃあ……私からミドリに、一つだけお願い」


 ユウカはそう言って微笑んで……笑っていたはずなのに、どうしてだか私には、その時のユウカがとても悲しげに見えてしまって。


「ミドリは、あなたのファーストキスを大切にしてあげてね。いつかあなたの大好きな人に、あなたの初めてをちゃんと渡してあげられるように。

 ……私にはもう、できなくなっちゃったことだから」


 ユウカは慈しむように私に笑いかけて、それから遠くを見るようにして、また言葉を紡いでいく。


「……ファーストキスに憧れてたの。ときめいて、甘酸っぱくて、お互いのことが大好きだって確かめ合えるような……そんな夢みたいなキスに。

 だから、私が初めてのキスをする時はきっと、世界で一番自分が幸せなんだろうなって思えるような気持ちになれるって、ずっと信じてた。……でもね」


 膝の上で手をぎゅっと握りしめて、泣き笑いみたいなくしゃくしゃの笑顔で、それでもユウカは言葉を止めない。

 ずっと心の裡に秘めていたものを、私たちに見せないようにしてくれていた澱を、吐き出すように曝け出していく。


「現実は、私の想像なんかよりもよっぽど残酷で。……私はもう、まともに先生と触れ合うことだってできないのに、ましてやキスなんて絶対に無理で……ううん、もしもまた、先生と触れ合えるように、なったとしても……」


 ユウカは吐き気を催すように口元を手で覆って。辛そうに……怯えるように、言葉を震わせて。


「私……わたし、初めてのキス、とられちゃった、から。こんな私とキスなんかしたって、先生はきっと、嬉しくもなんともない……それどころか、先生の方が、汚れちゃう、よ。

 私のせいで、先生まで、あいつらに汚されちゃうなんて……そんなの、嫌だ……やだよぉ……」


 途中からはもう涙声で。作り笑いを続ける気力もなくなって、瞳に涙を滲ませて、俯いて、両手で顔を覆って……ひっく、ひっくって、しゃくりあげるような声になって……

 子供みたいに泣きじゃくるユウカの姿を見て。──そのとき初めて、ユウカも私と一つしか歳の違わない女の子なんだって、今更になって気がついて。


「……私にはもう、無理、だから。……せめて……あなたの想いが届くように、応援してる、から……もう、それくらいしか、できないから」


 絞り出すようにそう口にした後、ユウカはゆっくりとベンチから立ち上がる。涙を滲ませた瞳で、それでもくしゃくしゃの笑顔を私へと向けて。


「だから、私の分まで……先生のことをよろしく、ね。ミドリ」


 それは、諦めの言葉だった。

 私の恋心を応援するというエールであると同時に、ユウカが自分の想いを……先生のことを諦めるという降参宣言に他ならなくて。

 ……でも、そのユウカの気持ちを素直に受け取るだなんて私には無理だった。

 だって、ちっとも嬉しくなんて思えなかったもん。そんなうわべだけの言葉がユウカの本心だなんて、ぜんぜん納得できなかったから。


 どうすればいいか、どうしたらいいのかを必死で考えて。だけど……どれだけ考えたって、ユウカにどんな言葉を掛けたらいいのか分からなくって。

 ユウカの心に届く言葉が、励ましてあげられるような言葉が、見つからない。


 ううん。そもそも私なんかに、今のユウカに何かを口にする資格なんてあるの?

 そう思ってしまったら……もう、何も言えなくなって。


 ……やっぱり私は、役立たずだ。


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 ……ユウカの、そして私たちの運命が捻じ曲がったあの日。

 ミレニアムのみんながユウカを助けるのに一丸となっている中で、私たちはずっと蚊帳の外で。

 何も。何一つ、役に立てなかった。


 だから、これはユウカが助け出された後で聞いた話。

 事態が発覚してから、迅速に陣頭指揮を執ったノア先輩率いるセミナーに、残された僅かな手がかりから短時間でユウカの監禁場所を特定したヴェリタスのみんな。そして犯人のアジトに乗り込んで、速やかに犯人を制圧してユウカを助け出した先生とC&C。

 みんなのおかげで、本当に本当の最悪の事態は避けられて。ユウカはぎりぎりで「最後の一線」だけは守り通せたって。


 ……でも、裏を返せば。

 その「最後の一線」に行きつくまでに、ユウカはいったいどれだけの「ひどいこと」をされて──どれだけの「初めて」を失ってしまったんだろう?

 それを聞く権利なんて……ううん。知ろうとする勇気すら、私には無くって。


 ──ファーストキスに憧れていた。

 だから、先生と初めてのキスをしたかったユウカの気持ちも、それを理不尽に奪われてしまったことへの絶望も、他人事とは思えなくて。

 私がユウカと同じ立場だったなら……きっともう絶対に立ち直れない。


 ……それでも。

 ううん。だからこそ。

 あの日から、心のどこかで、もう一人の私がずっと囁いているんだ。



 これで、やっと私にも『チャンス』が巡ってきた──って。



……私は、ユウカに嫉妬してたんだと思う。


 だって、ユウカは私から見てもとっても素敵な女の子で。

 私と一つしか年が違わないのに美人で大人びてて、ちんちくりんな私なんかとは違ってスタイルだって良くて、それでいて年相応の可愛らしさもあって。


 ミレニアムでも指折りの数学の天才で、冷酷な算術使いなんてからかい混じりに呼ばれてるけど、本当は誰もそんなこと本気で思ってなくて。

 世話焼きで、優しくて、頑張り屋さんで、まだ2年生なのにセミナーの会計としてみんなに頼られてて、私たちみたいな廃部寸前の弱小部活だって最後の最後まで見捨てないでいてくれた。

 私たちとそう年も変わらない……だけど私たちよりほんの少しだけ「大人」に近いところにいる、人生の先輩。

 ミレニアムにいなくてはならない、特別で大切な人。


 ……それに比べて、私は。

 もう十五歳なのに、たまに小学生に間違われるくらいに子供っぽくて。

 童顔だし、背だってあんまり高くないし……胸だってぺったんこだし。

 勉強もスポーツも平凡で、取り柄らしい取り柄っていえば、せいぜい人より少しだけ絵を描くことが得意なくらい。

 マキちゃんみたいにアートの才能があるわけでも、ユウカみたいに頭がいいわけでも、お姉ちゃんみたいにみんなをぐいぐい引っ張っていけるわけでもない。

 ……どこをとっても平凡で、胸を張って人に誇れるような才能や特技なんてなんにもない、ただの凡人。


 分かってるんだ。

 もしも私が先生の立場だったとしたら、私なんかより絶対ユウカの方を選ぶって。

 だって、それくらいにユウカは魅力的で。そんなユウカと比べられたら私なんて数段見劣りするし、どう考えたって勝ち目なんてない。……きっと、万に一つも。

 何よりユウカは私よりもずっと前に先生と知り合って、私よりもずっと長い時間を先生と一緒に過ごしてきて、私よりもよっぽど先生の役に立ってきて……先生からも、いつだって信頼されていた。

 私がどれだけ背伸びしたって足元にも及ばない、絶望的な恋敵。

 それが、私にとってのユウカだった。


 ミレニアムでは結果こそが全て。そして、その結果を出せる人間は限られている。

 研究も、イラストも、ゲーム作りだって、つくづく才能とチャンスが物を言う世界。

 どれだけ努力したって望んでいたものが手に入るとは限らない。そんなことはミレニアムに入ったときから分かってたし、覚悟だってしていたつもりだった。

 でも……まさかこんな形でそのことを思い知らされるだなんて、考えもしていなくって。


 どうして先生の隣にいるのは私じゃないんだろう。

 どうして私はユウカみたいになれないんだろう。

 どうして、どうして、どうして、どうして……?


 ユウカが先生と楽しそうにお喋りしてるのを見るたびに、ズキズキと胸が痛んだ。

 ユウカが先生に熱っぽい視線を向けるたびに、もうやめて!って叫びたくなった。


 苦しかった。

 悔しかった。

 妬ましかった。

 これが現実だなんて認めたくなかった。


 だから、きっと。

 ずっと、心のどこかで願ってたんだ。


 ──ユウカさえいなければ。


 もしも何かの切っ掛けで、ユウカが先生のことを諦めてくれたら。ユウカが先生の隣にいられなくなったら。

 そうしたら、もしかしたら先生だって私に振り向いてくれるかもしれない──って。

 そんなどうしようもなくご都合主義で、反吐が出るようなハッピーエンドのイベントスチルを、来る日も来る日も頭の中で思い描いて。

 どうか、どうか、その光景が現実になりますようにって、ずっと願ってた。願わずにはいられなかった。


 ……ううん。

 それはきっともう願いなんかじゃなくて「呪い」だったんだろうな。


 バカみたいだよね。

 もちろん呪いなんて非科学的なことを本気で信じてたわけじゃない。これでも私だってミレニアムサイエンススクールの生徒だもん。

 ましてや、何の努力もせず、何の代償も払わずに、ただ願うだけで望みが叶うだなんて都合のいい話があるわけない。そう思ってた。


 ……だから。そんな望みが現実になっちゃうだなんて、これっぽっちも思ってなかったんだ。

 呪いなんて非科学的なことを信じてたわけじゃない。

 だけど……もしも私が願ったせいで、それが叶ってしまったのだとしたら?

絶対ありえないって分かってるのに、そんな考えが頭の中にこびりついて離れなかった。


 だって。あの日を境に、ユウカと先生の間にははっきりと見えない壁が生まれて、今まで通りの気の置けない間柄じゃいられなくなって。

 今はまだ先生もユウカの事を気遣ってるけど、もしかしたらこのまま段々お互いに気まずくなって、会い辛くなって、疎遠になっていって……そうなったら。

 ひょっとしたら、まだ私にもチャンスはあるかもしれない……なんて。


 ほんの少しでもそんな風に思っていないって。

 今の状況を喜ばしく思っていないって。

 私は、

 本心からそう言えるの?


 他人の不幸を願い、それを喜ぶような人間は──最低だって思ってた。

 でも、だからこそ……今の今まで、自分がそんな最低の人間だったなんて思ってもみなくって。


 ユウカがそうなってから、ずっと。

 自分の中の汚い欲望をまじまじと見せつけられて……結局は、私もユウカを酷い目に遭わせた奴らと大差ないんだって思い知らされた。


 だから。

 きっと、こんな最低の私に、ユウカを助ける資格なんて、最初から──


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『そんなことどうでもいいの!!!』


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「──ごめん、ユウカ。やっぱり私……そのお願いだけは聞けません」

「……え」


 顔を上げる。

 立ち上がって、まっすぐユウカと向かい合う。


 ……分かってるよ。私は最低だ。

 自分が傷つくことに耐えられなくて、ユウカの苦しみを何一つ分かってあげられなかった卑怯者だ。

 それでも、そんな卑怯者の私だって……今のユウカをただ見ているだけなんて、嫌だったから。


 だから、今度は私の想いをユウカに伝える番。

 これが正しいかどうかなんて分からないし、余計にユウカを傷つけてしまうだけかもしれない。

 もしかしたら……これから私がすることを、ユウカは一生許してくれないかもしれない。

 だけど今だけは、余計なことは考えない。

 この瞬間だけは、理屈じゃなくて心に──「どうしたらいいか」より「どうしたいか」に従いたかったから。


「どうして……」


 怪訝な顔で問いかけようとするユウカだけど、そこから先は言わせない。

 だって、それを言い切る前に──


 一歩前へ踏み出して、ユウカの胸に思いっきり飛び込んで。

 精一杯背伸びして、まだ届かない13センチの差を強引に埋めて。



 ──塞いじゃったから。

 ユウカの唇を、私のくちびるで。



「──!!!? ……っ!」


 ほんの数秒にも満たないような「その瞬間」が過ぎ去って──

 ドン、と私の体が押し退けられて、私とユウカの接触は呆気なく終わりを告げる。


「みど、り……あなた、なにかんがえてっ!?」


 ……案の定、ユウカは目に見えて動揺していた。震える手で唇を押さえながら、上ずった声で私に詰め寄ってくる。

 今、ユウカの心の内側にはどんな感情が渦巻いているのだろう。困惑だろうか、怒りだろうか、それとも恐怖だろうか。

 どちらにせよ……いくら女の子同士とはいえ、合意も無しに突然唇を奪われたんだから、恨まれたって当然だ。

 きっと、私のことを許してはくれないんだろうな。


 でも、もう遅い。起こってしまったことは変えられないし、なかったことには絶対できない。

 ……たった今、私がユウカとキスをしたという事実。それさえあればいい。


 大人のキスなんて到底言えない。ただ唇と唇を軽く触れ合わせただけの、おままごとみたいな子供の戯れ。

 それでも正真正銘──私が自分の意思で誰かに捧げる、初めてのキス。


 まだ少しだけユウカの温かさが残る自分のくちびるを、どこか愛おしげに指でなぞって。

 私はユウカへと、その一言を口にする。


「えへへ。これで私も、間接キス、ですね」


 ほんの一瞬、何を言われたのか分からないって顔で、ユウカはぽかんとした表情を浮かべていて。

 ……次の瞬間、その表情がみるみるうちに青ざめていく。


「あな、たは……なんて……なんてことっ!」


 がしりと肩を強く掴まれ、震える声で詰め寄られる。

 だけど、その表情が示していたのは怒りなんかじゃなくて、絶望と後悔……ユウカってば、今にも泣き出してしまいそうな顔になって。


 ……ああ。やっぱり、そういう反応をする人だよね。あなたは。

 ユウカは私よりもずっと賢いから。私が何のためにこんなことをしたのか、すぐに思い至ったんだろう。

 私がユウカの唇を通じて──『誰と』キスを交わしたのか、ってことに。


 口づけの理由。

 それは間違ってもユウカへの嫌がらせとか当てつけなんかじゃないし、ましてや恋愛感情でもない。

 ただ……あの日、ユウカが負ってしまった『呪い』を、ほんの少しでも分かち合いたかっただけ。

 望まずして『初めて』を奪われて、穢されてしまった、その喪失感と絶望を。


 だって、ユウカは優しいから。どうしようもなく優しい人だから。

 私たちのことを叱りはしても、本気で傷つけるようなことは絶対にしないって信じてるから。

 それなら……これからユウカが自分で自分を傷つけるなら、そのたびに私だって同じだけ傷ついてやる。


 初めてを奪われて、もう先生とキスする資格さえ無いんだって、ユウカが諦めの言葉を口にし続けるのなら。

 汚れてしまったことが罪だって、ユウカがそう思い込んでるのなら。

 ──これで、私だって同罪だから。


「ごめんなさい。でも……こうする以外に思いつかなくて」

「だからって、どうして! あなただって、ファーストキスに憧れてたって……それを、こんな、こんなことのために……なんで──!」


 ユウカは青ざめた顔で、涙をぽろぽろと零しながら、それでも懸命に私のことを叱ろうとする。

 自分の痛みよりも先に、私が喪ったものの重さの方を慮ってくれる。

 そんなユウカだったからこそ、私は……そんなことないよって伝えたかったんだ。


「いいんです。だって、ユウカはずっと、私の憧れの女の子だったから。……初めてのキスの相手がユウカなら、私、後悔しませんから」

「ミド、リ……」


 恋する資格がないわけないんだって、ユウカが自分でそう思えるようになるまで、何度だって何度だって叫びたかった。言葉なんかじゃ伝わらないって分かってたから、行動で示すしかなかった。


 私も同じだけ失わなきゃ、きっとユウカの心には届かないって思ったから。


 ……なんて、ね。


「──なんて、嘘。本当は私の『初めてのキス』の相手はお姉ちゃんなんです」

「……へ?」


 唐突なカミングアウト。ちゃぶ台をひっくり返すような私の言葉に毒気を抜かれたのか、ユウカは涙を流すのも忘れて、ぽかんと口を開けていた。

 ……もしかしたら冗談だとでも思われちゃったかな。でも……嘘みたいだけど、これはホントの話だ。


 もうずっと昔、私とお姉ちゃんが物心もつかないような小さな子供だった頃。

 テレビドラマか何かで見たキスシーンに興奮して、その行為の意味も知らないままに……見様見真似で唇と唇を重ね合った、あの瞬間。

 それを『初めてのキス』と定義づけるのなら。

 きっとそれが、紛れもない私のファーストキスだったのだろう。


「……まあ、無理矢理キスしてきたのはお姉ちゃんの方からで、あの時は私も流石に怒りましたけど。『もうお姉ちゃんとなんか絶交だ!』って大泣きしたっけ。……今にして思えば、昔お姉ちゃんとの仲がギクシャクしちゃってたのもあれが切っ掛けだったのかなぁ」


 あはは、とおどけて笑ってみせる。ユウカはといえば複雑そうな顔をして。


「えっと……それは流石に、ノーカンじゃないかしら?」

「うーん、ノーカンにしていいんでしょうか」

「いいって思うけど……」


 どこか同情の色を含んだ声色で、ユウカはそう請け負ってくれた。

 ……まったく、この人は。ついさっきまであんなに落ち込んでいたくせに、人のこととなるとすぐこれだ。筋金入りのお人好し。

 でも……ユウカならきっとそう言ってくれると思ってたし、その言葉を待っていた。

 私は悪戯っぽくにんまりと笑って、


「だったら、ユウカだってノーカンにしたっていいと思います」

「え、っ……」


 虚を衝かれたようにユウカがフリーズする。だけど私は真剣だ。まっすぐにユウカの目を見つめて、口にする。


「そもそも、ファーストキスの定義って何なんですか? ただ唇と唇が触れ合っただけでキスだなんてナンセンスですよ。

 ただの事故だとか、人工呼吸だとか……そんなロマンチックでもなんでもないもの、ノーカンにしたっていいじゃないですか」


 ……ファーストキスに憧れていた。

 くちびるとくちびる。一生を共にしたい大好きな人との愛を確かめ合う神聖な儀式。

 いつか私もそんな、とろけるように甘いファーストキスをしてみたいなって。

 夢見ていたし、これからも夢見ていたかった。

 ──ユウカにだって、夢見ていてほしかった。


「だから……私も、ユウカも、自分で決めていいんだって思います。自分にとって本当の『初めてのキス』の相手が、誰かなんてこと」

「ミドリ……その、言いたいことは、分かるけど」


 それでもまだ、ユウカの表情は晴れなくって。

 ……当たり前だよね。こんなのはただの言葉遊び。気休めにもならない詭弁だって分かってる。それでも。


「それでも、私は、ユウカに先生のことを諦めてほしくないんです」

「でも……ミドリだって、先生のことが好きなんじゃ」

「……だからこそ、です」


 もしも、ユウカが先生を諦めることを諦めて、いつか立ち直ったのなら。

 きっと今まで以上に先生と急接近して……今度こそ、私に勝ち目なんてなくなっちゃうんだろう。

 それでも私の答えは変わらない。何故かって、そんなの決まってる──


「私だって、ゲーマーの端くれだから。リードされてる相手にいきなりリタイアされて勝ちを譲られるだなんて、絶対納得できない! そんなんだったら……同じ条件で真っ向から競い合って、その上でボロ負けした方がマシ、ですから」

「ミドリ……」

「だから、これは真剣勝負なんです。勝手に降りるだなんて許しません。正々堂々、正面から戦ってくれなきゃ嫌です。そうじゃなきゃ、私はユウカを許さない」

「でも……私は、もう……」


 また、ユウカは俯いてしまう。これだけ言葉を尽くしても、想いをぶつけても……それでもまだユウカの心には届かない。届いてくれない。

 それが悲しくて、悔しくて、私は……


「ユウカはっ!」


 気がついたら、ユウカに向かって思いっきり叫んでいた。

 狼狽えるユウカだけど、もう止まらない。……止まってなんか、やるもんか。


「み、ミドリ……?」

「前からずっと言いたかったんですけど、ユウカはもっと自分に自信を持っていいと思います! ユウカは可愛い! 顔立ちは整ってるし、スタイルだって抜群で、綺麗で、頭だっていい!

 ミレニアムのみんなや先生からも慕われてて、信頼されてて、もちろん私だって大好きで……私の目標で、憧れの人で……っ!」


 綺麗で、賢くて、私達よりもちょっとオトナに近くて、大好きな人の隣で支えになってあげられる。そんなユウカの姿は、私がいつかこうなりたいって憧れる理想、そのまんまで……

 敵わないって負けを認めてるみたいで悔しかったから、絶対口には出さなかったけれど。ユウカと先生が二人一緒にいるところを見るたびに、いつも。

 ──お似合いだって、ずっとそう思ってたから。


「……そんなユウカが! 『私なんか』なんて、そんなこと言うのは見てられない! 大好きな人と結ばれるのを諦めようとするなんて、見てられない! 私の憧れの人をバカにしないでよ! ユウカは、ずっと私の憧れでいてよ……!」


 そんな憧れを。私がなりたい未来の姿を。どうしても汚されたくなかった。たとえユウカ自身にだって……否定されたく、なかったんだ。


「あきらめないで……あきらめちゃ、ダメだよ、ユウカ。……私よりずっと、先生に近いところにいるくせに……自分から、捨てちゃうなんて……許さない、から……! ……ぐすっ、う、うぅぅ……!」


 今度はもう背伸びなんてしてられない。母親に縋る子供みたいにユウカの胸元へと縋りついて、ぎゅっと抱きしめて……気づいたら、駄々を捏ねる子供みたいに泣きじゃくってた。


 ……本当は、私もずっと吐き出したかった。

 お姉ちゃんに振り回されて、ユズちゃんやアリスちゃんと一緒に巻き込まれて、みんなでユウカに怒られて。

 そんな騒がしくてはちゃめちゃで、だけどかけがえのない日常が、突然奪い去られてしまった理不尽に。

 こんなのないよって、そう文句を言ってやりたかったんだ。


「もうこれ以上、ユウカの泣いてる顔なんて、わたしは、見たくないから。……ユウカも、先生も……ずっと笑ってて、笑顔で、幸せでいてくれなきゃ……イヤ、だよぉ……」


 好きだった。

 先生のことも、ユウカのことも。

 お姉ちゃんほど、素直に自分の気持ちを口には出せないけど。

 私の大好きな憧れの先輩で……もうひとりのお姉ちゃん、みたいな人。


「なにがあったって、ユウカは、ユウカだから。わたしの、わたしたちの、だいすきなユウカのまま、だから。

 ユウカだって、自分のことを、キライにならないであげてよ。おねがい……」


 ……おねがい、ユウカ。


「───ミドリ」


 唐突に。

 ぎゅっ、と。暖かな感触がまた、私のことを包んでくれて。頭の上から慈しむような声が降ってきて、顔を上げる。


「ごめんね。ずっと、ずっと、心配かけて。それと……ありがとね、ミドリ。私のこと……大好きだって言ってくれて」


 見上げた視界に映ったユウカは、もう泣いていなかった。潤んだ瞳で、それでもどこか晴れやかな顔で微笑んで、笑っていた。笑ってくれていた。


「私も、私もね。あなたのこと……あなたたちのことが、大好きだよ」


∴ ∴ ∴ ∴ ∴ ∴ ∴ ∴ ∴ ∴


 ──それから。


「……私、もう一度先生と話してみることにする。やっぱりもう少しだけ、先生との『当番』は今まで通りに続けたいって」


 そう口にするユウカは、どこか吹っ切れたっていうか、憑き物が落ちたみたいに見えて。


「先生とまた元通りの関係になれるかどうかは分からないし、ミドリやみんなにだって、これからもいっぱい迷惑を掛けちゃうって思うけど。でも……

 ミドリのおかげで思い出せたんだ。やっぱり、私は先生が好き。この気持ちだけは絶対に諦めたくないから」


 はにかみながら笑うユウカを見て、これでユウカもほんのちょっとは立ち直れたのかな、なんて安堵して。

 ……ふと、頭に閃くものがあった。天啓、なんて呼ぶのもおこがましい、ちょっとした思い付き。


「あ、そうだ……さっきのファーストキスの定義の話ですけど。ひとつ、しっくりくるのを思いつきました。」


 ピンと立てた人差し指をくちびるに当てて。あえて意識して、お姉ちゃんみたいに悪戯っぽく。


「──そこに愛があること、です」


 そう言って、ユウカに微笑みかける。

 ユウカはほんの一瞬だけ狐につままれたような顔になって……それからくすくすと笑い出して。


「ふふっ、それは素敵かも。……うん、採用!」

「はい。初恋は、素敵なものであるべきだって思いますから」


 ……なんだかすっごく久しぶりにユウカの心からの笑顔を見れた気がして。それが嬉しくって。釣られて私も笑顔になってしまう。

 だって、今までユウカを羨むことはあっても……不幸になってほしいだなんて、一度だって思ったことはなかったから。


「ありがとうね、ミドリ。それと──」


 ふいに、ユウカがさっきまでとは一変、挑発的な微笑を私へと向けて。


「私、負けないからね!」

「──ぁ」


 それはきっと、私がずっとユウカの口から聞きたかった言葉で。

 ……だからこそ、私もユウカにふてぶてしく笑い返してみせる。今だけは、憧れの先輩じゃなくて……対等の好敵手として。


「ふふっ、そうこなくっちゃです! ……その言葉、私もそっくりそのまま返しますから。覚悟しておいてくださいね!」


 気がついたら、ずっと感じていた心のもやもやはどこかに吹き飛んでいた。

 ああ、そっか。そういえば、ユウカだけじゃなくて……

 私も、こんな風に心の底から笑顔になれたのは、久しぶりだったなって。


∴ ∴ ∴ ∴ ∴ ∴ ∴ ∴ ∴ ∴


 それから何日かして。

 あの日と同じミレニアムの遊歩道を通りすがった時、先生と並んで歩いているユウカの姿を偶然見かけた。

 ……ぎこちなくって、手を繋ぐことさえままならなくて、まだ元通りだなんて全然言えなかったけど。

 それでも、先生の服の袖口を指先できゅっとつまんでその隣を歩くユウカは、幸せそうな笑顔を浮かべていて。

 二人の間にできてしまった溝は、ほんのちょっとだけ縮まったみたい。


 それに──

 先生と楽しげに話しているユウカのくちびるが、ほんのり赤いリップで彩られているのに気が付いて。

 暖かな気持ちと、仄かな痛みが入り混じったような……そんな不思議な感覚が胸の中を駆け巡って。

 それでもやっぱり最後には嬉しさの方が勝って、どうしようもなく顔がほころんでしまう。


 おめでとう、ユウカ。


∴ ∴ ∴ ∴ ∴ ∴ ∴ ∴ ∴ ∴


 きっと、大人になっても私は、あの日のことを忘れることはないのだろう。

 私が一歩だけ大人の階段を昇って、なりたい自分に近づけた日。

 ……その代償に、大切なものをたったひとつだけ、手放した日。


 ユウカに先生を取られたくなかった。

 だけど……それでもユウカには今まで通り、先生の隣で笑っていてほしかった。

 矛盾してるって自分でも思うけど、きっとそのどっちも、私の心からの素直な気持ち。


 あなたと同じだけ失えば対等になれるだなんて、自惚れてるわけじゃない。

 この程度であなたと苦しみを分かち合えるだなんて、思い上がるつもりもない。

 それでも。

 他人の不幸を願って、それを喜ぶような──そんな最低な人間にだけは、なりたくなかったから。


 だから、それであなたが少しでも救われるのなら。

 私の「初めて」は、あなたに預けます。


 後悔なんてしていない。

 だけど……ほんの少しだけ心に残った感傷をなぞるように、そっと私は私のくちびるに触れる。


 もしも、私のこの想いが叶うことはないのだとしても。

 願わくば。


 どうか、いつか。

 私の大好きな人にあげるはずだった「初めて」が。

 あなたのくちびるから、あの人へと届きますように。



 ──さよなら、私のファーストキス。


∴ ∴ ∴ ∴ ∴ ∴ ∴ ∴ ∴ ∴


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