きぼうのゆくえ
一人称視点って難しい傷の無い自分の体を見るのは久しぶりな気がする。拳をぐーぱーと握ってみて具合を確かめた。やはり無傷の体は動きやすいが、旦那様につけてもらった"愛の証"が綺麗さっぱり消滅してしまったことには、どこか寂しさを覚える。
また例の"お遊び"が始まるのだろう。ひとところに集められたかつての同胞たちを眺める。自らの主人に楽しんでもらうのだと張り切る者、これから待ち受ける大勢のハンターたちとの戯れにソワソワとした期待を隠しきれない者、ゲームが再び始まることに絶望して崩れ落ちる者、異星人に対して怒りや恐怖を口にしている者…皆反応は様々だ。後者二つは、余程今の環境で酷い目に遭わされているのだろうと胸が痛くなる。いつか彼らのもとにも、何度でも迎えに来てくれるような一途で愛しい旦那様が訪れれば良いと心の中でそっと祈った。
そんな中、スタート地点のホールにアナウンスの声が響く。
『それでは、一部の方々の精神修復作業を行います』
女性の声の後に、脳が一瞬揺さぶられるような感覚がしてから自覚していなかった思考の靄が一気に晴れていった。
…………ぐらりと今まで立っていた足場が全て崩れ落ち、再構築されている途中のぐちゃぐちゃな地面に叩きつけられたような心地。あぁまたおかしくなっていたようだと最悪の気分になるものの、流石にもう何十回も味わっていれば慣れてしまう。さて、今回の俺は何日保ってくれるだろうか。
アレに捕まって碌でもない目に遭わされては矜持も大切なものも何もかもぶち壊されて、ゲームが始まる度に自分の中に存在していた常識や理性がずたずたになりながら無理矢理引っ張り上げられる。それを何度も何度も繰り返してきた俺の精神は、何をどう修復されようが二度と完全には元に戻らないんだろうと他人事のように思う。
「ゔ、ぉ゙ぇ……」
ずきずきと痛む頭に手を当てて目を瞑っていると、後ろからびちゃびちゃと嘔吐する音が聞こえた。まぁ鬼ごっこ開始前には珍しいことではない。俺も確か三十回目くらいまではよく吐いていたような気がする。
振り返って見ればそこにいたのは、気も話も合わないがなんとなく一緒にいて心地良い友人だった。戻してしまったことに対してか、彼は蹲ったままごめんなさいごめんなさいと謝り続けている。
「大丈夫か、時み……」
屈んで目線を合わせたところで、はた、と気付いた。
──待て、俺はこいつに、何をした?
『また殴られちゃった……そんなに俺が嫌いなら、さっさと手放してくれればいいのに……どうしたら愛されるようになるんだろう』
『本当に嫌われているならとっくに捨てられてるだろ。お前は愛されている、胸を張れ。振るわれる拳も、つけられた傷も、それら一つ一つが旦那様の愛だ』
『そういうものかなぁ……』
『今回も上手く出来なくて怒られた……お仕置きでも痛くて泣いちゃったし、こんなんじゃ旦那様に愛想尽かされちゃうよぉ……』
『お前はよくやっている。これからも同じように旦那様に尽くしていれば、それだけでお前の想いは伝わるさ』
『…! ありがとう、俺頑張るよ!蟻生くんは優しいね』
「……ぁ………………」
ヒュ、と喉が鳴る。最悪だ、最悪だ最悪だ最悪だ。今目の前にいる時光に、つい先日会った時光の姿が重なる。今は俺同様傷は全て修復されているようだが、あのときこいつは片目の上が大きく腫れ、腹のあたりには骨が折れているのではないかと思うほど広範囲に青黒い内出血痕が広がっていて、それでもにこにこと"旦那様にどう愛してもらったか"を語っていた。
時光の心をそんなふうに歪めてしまったのは、紛れもなく俺だ。極限状態の中で友人として、同じ立場の先達として俺を頼ってくれたというのに、その信頼を裏切るような真似をした。叩き込まれたねじれた価値観を脆くなったこいつにも植え付け、奴隷扱いにも迎合するよう教え込んだ。
……俺が、時光をあんなになるまで追い詰めた。
『三分後にハンターを解放します。逃走者の皆さんは行動を開始してください』
互いに目を見開いたまま何も言えない俺たちの間に割って入った放送内容に、二人して肩がびくりと揺れる。ここにいてはすぐに捕まってしまう。だが、ガタガタと震え出した時光は腰こそ抜けていないがどうも上手く立ち上がれないようだった。
俺に触れられたくなどないだろうが、時光の腕を引いて立たせてから、そのまま走り出す。重く力強かったその体は、筋力の落ちている俺でも簡単に引き上げられるほどに軽くなっていた。哀しい。悔しい。遣る瀬ない。今すぐ崩れ落ちて膝をつき許しを乞いたくなる気持ちを抑えながら、何も言わずひたすら足を前に進めた。
ひとまず出入り口が二つある部屋に飛び込み、どちらからハンターが来ても逃げられるよう部屋の真ん中に陣取ってしゃがみ込む。
「あ、蟻生くん、ありが…」
「すまなかった…!」
「へ」
深く、深く時光に向かって頭を下げる。
「俺のせいだ…俺が余計なことを吹き込んだばかりに、お前をあんな……」
本当に、謝っても謝りきれない。情けなさに目頭が熱くなるが、ここで泣いてはいけない。俺が泣いたらきっと、時光は許そうとしてしまうから。床についた拳を力強く握りしめ涙を堪らえようとしていると、「ちが…、待って、待ってよ…!」と頭上から焦った声が降ってくる。
「違う…蟻生くんのせいじゃない!俺が弱かったんだ…。俺の心が弱いから、追い詰められて、何も考えたくなくて思考を放棄して…勝手に全部君に委ねただけなんだ…」
だから頭なんて下げないでよ、という言葉と遠慮がちに肩に触れる手に、おずおずと顔を上げた。苦しそうに胸の内を吐き出す時光に、まるで自分たちが基督教の告解室にでもいるかのように錯覚する。
「まともな判断力を失ってたあの時だって、君の様子がおかしいことには…きっと心のどこかで気付いてた。それでも俺は他に縋れるものが無かったから、なんにも分からないフリをして、蟻生くんが言うなら間違いないんだろうって…」
「時光……」
俺に謝られる価値なんて無い、と時光が吐き捨てた自嘲は尻すぼみで、弱々しくて。
「俺がもっと強ければ、一緒に狂わず君の心を助けられたのかなぁ……」
深碧の瞳が薄く水の膜を張って揺れ、柔らかいテノールの声は小さく引き攣り震えていた。
また謝るのもなんだか違う気がして、互いに何を言えば良いのか分からず、部屋に沈黙が落ちる。
「………あ、あのさ、」
時光が口を開いたタイミングで、外からバタバタバタッ!と足音が聞こえてきた。
『縺奇ス槭>縲∝セ?▲縺ヲ繧医?』
「クソッ!!こっち来んな!!」
驚いている間に声と足音は小さくなっていく。…心臓が止まるかと思った。
追われる誰かとハンターたちは、自分たちのいる部屋の扉を気にかけないままどこかに行ったようだ。恐らくこちらのエリアにも追跡の手が増えつつある。いずれここも見つかるだろう。
「………もう少ししたら、俺達も移動するか」
「う、うん。鍵は掛けてないけど、ずっと同じ部屋にいるのも何に抵触するか分かんないし…」
二人してゆっくりと立ち上がる。
ふと、部屋の隅に置いてあった清掃用具入れのロッカーが目に留まった。地球のものとあまり変わらないそれを開けてみると、中にはバケツとデッキブラシが数本入っている。
「…蟻生くん?何してるの?」
「いや………」
ブラシを一本手に取り、頭を足で踏んで押さえる。そのまま腕に力を入れて、ブラシの柄をばきりと折り取った。
「えっ、ちょっと蟻生くんほんとに何してるの!?」
「"俺"、調達」
まだ青い監獄にいた頃の自信に溢れた口調をおどけたようになぞって、軽い木製の棒を二、三回軽く振る。あまり深刻な雰囲気にならないようにしたつもりだが、時光はざっと顔を青褪めさせてしまった。
「だ、駄目だよ!歯向かうような真似したら…蟻生くんが…!!しかもそんな棒切れじゃ、あいつらには勝てないよ…!」
苗床をやっていた頃、同じ境遇に落とされた奴らから話を聞いていた時光は、俺よりもこの星における地球人の扱いに詳しい。廃棄処分とやらの存在とその末路の一部も、前に教えてもらったことがある。無謀にもあれに殴りかかれば俺がそうなるんじゃないかと、心配してくれているのだろう。
安心させるように、ニヒルな笑みをつくってみせる。上手く笑えてるかは分からないけれど。
「心配無用。あの馬鹿はな、俺に心の底からベタ惚れなんだ。多少の仕置きはあるかもしれんが、この程度の抵抗であいつが俺を棄てるわけがない」
まぁ万が一廃棄されたって別に構わない。例え行き着いた先で犬のように扱われても、今の環境に押し込められ続けるより精神衛生上ずっと良いように思えた。
それに、と刀を突きつけるように木の棒を扉がある方向に向けて振り下ろす。
「連中はどーせ不死身なんだ。玲王や士道がそれを証明してる。例え今持ってるのが角材や鉄パイプだろうが、極論真剣や槍といった本物の武器だろうが、そこに大した違いはない。こんなのただのお守り代わりだ、多少相手を怯ませて隙を作れれば御の字程度のな」
それ以上言い募られる前に「行くぞ時光」とさっさと歩き出せば、時光は慌てたように「蟻生くん、待ってぇ!」とついてきた。
これで良い。これで丸腰のまま向かっていくよりは、多少稼げる時間が増えた。恐らく一分も変わらないだろうが。その数十秒があれば、お前の俊敏性なら遠くまで行けるだろう?
あいつが、時光の"ダンナサマ"がまた現れたなら、俺が足止めする。それが今の俺に出来る贖罪だ。
時光はあぁ言ってくれたが、このままでは俺自身が俺を許せない。いつまでも逃げ続けられるとは思っていないが、せめてあの嗜虐趣味の化け物からだけは逃がしてみせる。こいつが優しくてアレより地位の高い別の異星人の目に留まるかは賭けだが、この星のやつらは逞しい体格の人間の方が好みのようだし、時光は比較的モテる方だろうからきっと大丈夫だ。
今回はきっと保って一日二日であろう正気の自分に今のうちに心の中で別れを告げて、俺はデッキブラシの柄だった棒を強く握り直した。