きずあと
逆転・転生・記憶あり
記憶はおれだけが抱えていた。
三年前、すぐに野良猫を追いかけたり友達の家に直行したりと寄り道をして帰るのが遅くなる弟を誕生日だから早く連れて帰る様に母親に頼まれて迎えに行き、何がそんなに楽しいのか繋いだ手を振り回す勢いでゆらされながら大通りについた時だ。
突然背後から高い悲鳴と「逃げろ」という声が響いた。振り返ると何か、刃物を持った男がよく分からない事を喚きながら⋯⋯今でも何を叫んでいたのか定かではない。呂律も回っていなかったし事件後暫くして調べた話では『心神喪失』という単語が並んでいたので、まあ、そういう事なのだろう。
悲鳴がもう一度あがったところで周囲がやっと事態の大きさと自分達では対処できない事実に気づきパニックを起こしながら逃げ出していくのと伸ばされた手に気づいて弟を突き飛ばしたのはほぼ同時だった。
腕を切り裂かれて呻く間もなく地面に押し倒される。邪魔されたのが気に食わなかったのか獣染みた唸り声をあげ強い力で抗えないまま刃が振るわれ顔が熱くなる。頭の中で
『逃げろ』
と弟へ叫ぼうとして喉から出てくれない声と
『助けて』
という誰かに助けを求める声が混ざる様に響いてガンガンと頭が痛い。
「キャメル」
絞り出した声がどちらの意味だったか理解する前に弟が腕に飛びかかる様に体当たりしてきた。態勢が崩れた男から刃物を奪おうとしている。
「逃げて!」
とその声に我に帰り捕まえて引きずってでも逃げ出そうとしたがどこもかしこも痛くて一歩も動けない。事態が起こってから三分もたっていないだろうに“最悪”が真っ赤に染まった視界で繰り広げられようとしている。
「やめろ!」
次の瞬間、誰かの叫び声と共に弟の顔から血飛沫が飛び駆けつけた数人の警察官が男を捕まえようと組伏せた。
収まらない恐慌の中呆然とするおれに弟が顔の右半分から血を流しながら安心させるように笑っている。
「もう大丈夫だからね」
その笑顔におれは思い出した。
弟は、兄だった。
入院して二人きりの個室が用意され順調に回復していくキャメルにどうすれば良いのか当初は混乱していたが当の本人が以前と変わらず
「痛くない?」
「大丈夫?」
「このトマト食べて」
と接してくるので嫌でもキャメルには兄だった頃の記憶が無いことに気づかされた。記憶が戻っているのならアニキの事だ例えどう思われ様が記憶の事を尋ねてくるだろう。尋ねたところで首をかしげられるのは目に見えていた。
思い出さない方がよっぽど楽だったと少しの失望と多大な怒りをトマトと共に飲み込んだ。
それから三年。なんの皮肉か以前と同じ傷が残り、キャメルが十歳の誕生日を迎えおれが十五になっても何が起きるわけでもなく時は流れていった。
「クロ!」
朝起きて聞こえてきた歓声に耳を押さえながらリビングへ行くとキャメルが派手にラッピングされた小さい箱をこちらへ差し出して来た。
「サンタ今年も来たよ!」
これはクロの分ね! と押し付けられ受けとるとキャメルはじっとこちらをキラキラした目で見つめてくる。毎年の事ながらいい加減飽きないのかと思いつつラッピングを雑に破り箱を開けると中から親に伝えていた通りのブランドの財布が出てきた。
「欲しかったもの?」
「ああ、そうだな」
肯定すると更に破顔させて
「流石サンタさんだね!」
と満足そうに言うと自分宛のプレゼントへ向かう。
こうして毎年キャメルはおれがプレゼントを喜ぶのを確認してから自分のを開けるという謎のプロセスを踏んでいた。
理由は不明だがサンタの存在を十歳になっても変わらず信じ続ける子供の考えなど分かるわけがないと諦めている。両親はこの弟の純粋無垢な幻想を訂正する気は更々なくサンタの置き手紙まで作り出してうんざりしていた。さっさと現実に気づいて欲しいものだ。
「見てクロ私の欲しいモノもちゃんと入ってたよ! 凄い!」
どうやら今年はぬいぐるみだったらしい。一体今日までどこに隠していたのか、平均より小柄なキャメルを今にも押し潰しそうな大きな駱駝の⋯⋯そこまで考えてまだ会えていない家族が浮かんだ。
彼女はここでも駱駝なのだろうか。
「クロ?」
そんな事をぼんやり考えていると不安そうにこちらに駆け寄ってくる。
「どうしたの?」
「いや⋯⋯なんでもない」
傷に伸ばされた手を見て無意識に一歩、距離をとっていた。
キャメルはときおり傷をなぞるように触れようとする。
それには守れなかった後悔が滲んでいて嫌いだった。未だにどうすれば正解かも分からずただ受け入れることしかできない事実が殊更その思いを強めている。
「痛い?」
視線をやれば兄と全く同じ傷を持った弟がこちらを心配そうに覗き込む。
「⋯⋯キャメル」
記憶が戻ってから繰り返した迷いは今回も結局“先延ばし”という同じ答えをだした。
「母さん達起こそう。プレゼントの報告するんだろ」
「うん見せる! 今までの結果からして多分サンタはエスパーだと思う!」
「そうかよ」
キャメルとは、こういう生き物なのだ。
その結論にまたどこかで何かが重なったのかくらりと揺れる視界におれは諦めて目を閉じた。