お前は獣か?
今宵もコリーダコロシアムは歓声と笑顔と、そして信仰に満ちている。
芝居がかった身振りと声で観客の高揚を誘う10年来の友人は、いつも己の全てを操りその熱を人々に伝えようと努力していた。
「あれだ、人ってのは何でも信じるとっから始めねェとお話にならねえもんだろ」
でなけりゃ一つっきりの命なんざ勿体無くて賭けられねえ。そうだろ?
そう笑う彼に、私はこの神聖な場の英雄たる役目を託した。ドレスローザの生まれ育ちでない者が"英雄"の名を冠することには当時賛否が分かれたが、私がその選択を悔いたことは一度もない。
彼の在り方は、かつて同じ英雄の名で呼ばれた私とは根本的な所で異なっている。
鍛練と賞金稼ぎ稼業の合間にスピーチの練習を欠かさない彼が真っ先に行ったのは、囚人剣闘士制度の撤廃だった。会場が冷めるような試合はいらねェというのが、彼の言だ。
新しい英雄はいつも戦いに熱を求めた。
英雄として人々の信望を集め、夢を語り狂奔を率いる彼。
戦士として身一つで立ち、己の魂を削り出すような死闘を繰り広げる彼。
友の内には、常に追うべき背中が厳然と存在しているように思えた。
振り撒く熱で心を焼き往く生き方を、遠い北の海でかつて友へと示した誰かがきっといたのだろう。
「よおキュロス!!ぶちのめされる覚悟はできたか?」
「友よ、私もこの国を守る剣として、まだ君には負けられない」
観客席からはまるで人々が一つの生き物であるように、彼と私への声援が響く。
嘲りも罵倒も、罪を遠ざけたこの場所から去って久しい。血の儀式の夜を包む迷いなき熱量こそ、友が紡いだ功績だった。
残照の下、剣戟の音が響く。
優雅に舞う薄布のような刃は重く、まるで各々意思を持っているかのように友の剣となり盾となった。戦い続けた10年で、彼の悪魔はまさしくその手足となっていた。
彼は戦士だった。彼にとってコロシアムは戦場で、それこそが魂の場所だった。
そして血の儀式は、闘争でこそ信仰を証しする祈りの場なのだ。
幾度の敗北を踏み越えた剣技は、そう遠くないうちに最強の名で語られる私を下すのだろう。だが、それはまだ今でなくてよい。まだ、君の打ち倒すべき相手でいさせてほしいと、燃える心を恐ろしいとはもう思わない。
「"陸軍旗"!!!」
「なんの!」
友が能力で変質させた地面を避け、彼の立つそこに狙いを定めて両足に力を込める。
能力で避けられぬよう狙いを定め、突きの構えを取った、その時だった。
「!!!なんだァ!?」
「まさか地下遺跡が…!!」
激しい揺れと地下から響く轟音が突如、コロシアムを襲った。
神々の眠りを守る神秘の墓所が、その内側から崩れてゆく。
「おいキュロス!客逃がすか!?」
「…いや、崩落の影響を最も受けにくいのはここだ。無理に市街へ連れ出さない方が安全だろう」
「なァるほど」
流石現役軍隊長サマだと頷いた友は、胸を反らして大きく息を吸い込んだ。
「ギャーッツ!!」
コロシアムの英雄の一声で、実況席から誘導のアナウンスがかかる。地下遺跡の構造的に、この場が最も安全であること。続いて崩落の調査は国王軍により行われることがいつもの調子で伝えられ、観客の動揺はすぐに治まっていった。
「ンン、しっかしこりゃまさか、あいつら地下行って暴れたんじゃねえだろうな?」
「その通りだ!」
「!!何者だ!!!」
空気の漏れ出す音のような笑い声と共に、遺跡に血を捧げるため掘られた細い溝から薄く漂う気配が現れる。ややあって一塊の気配と形を成したそれは、頭部に羊角を生やした男の姿をしていた。
「躾のなってねえあの阿呆共、四皇御用達のこのおれ様の研究所を滅茶苦茶にしやがった…」
「貴様は一体…」
「アン?こいつァ…」
「入れ知恵の責任は取ってもらうぞ!ドブネズミ共!!」
友の声を遮り、視界が、赤く染まった。深く暗い、血の臭いがする。
景色が歪み、血が恐ろしく滾る。異様な高揚の中でみしりと剣の持ち手が音を立てるのを、私の理性はどこか遠くに聞いていた。
「シュロロロロ!!!ずうっと戦ってきた相手だ、殺したくて仕方ないだろう!?」
「お前…その目…」
「何だ?英雄様は獣もご存知ってか?何十年も馬鹿の一つ覚えみてえに血を流させてきた男が、半端に神秘に触れて"こう"なるなんざ当然だろうが」
目、目が、どうしたのだろうか。
事前の調査で、汚染の進んだ区域には何度も立ち入ってきた。やはり私の目も、患者たちと同じ血の赤色を湛えているのだろうか。
「この国はおれの実験場さ…あのカイドウとビッグマムのお墨付きでな!」
「ほお、今あらゆる謎が解けたぜ。つまるトコ全部てめェのせいってワケだ」
「ああそうだ!全てこの天才、シーザー・クラウンの手腕によるものだ!!」
シーザーと名乗った男は酔った声音で、それに引き換え、と言葉を続けた。
「全く惨めなもんだ。馬鹿に生まれついたせいで…なるべくして獣になる連中は!!」
男の嘲笑が、揺れる脳に反響している。
獣、私は、かつてそう呼ばれていた。
そしてそれは、一つの真実でもあった。
私はまた―
「惨めねえ…」
血の熱に熔け落ちそうな思考の内に、友の声がぽつりと落ちた。
「てめェは昔のおれにそっくりだぜ。偉ェ奴に認められたから天才か?」
剣を握り潰さんとしているかのように力が込められていた腕が、動きを止める。
「笑っちまうくらい薄っぺらいプライドだな。世界でただ一人だろうが、信じられるモンが誇りだろうが」
「何を…」
「他人の夢にタダ乗りするだけのてめェが!あの男を語るんじゃねえよ!!!!」
友の声に思考が揺り起こされる。
斃れることも、堕ちることも許されない。過去と未来の私が決して許しはしない。
かつて、私は一匹の獣だった。
怒りのままに、憎しみのままに人をすら殺める。それが私の小さな世界の理だった。
ひどくちっぽけなその世界の外では、己は生きてはいけないのだと信じていた。
―お前は獣か?
王よ。獣を識る我が王よ。
親友を喪い、檻の中から眺める世界に為すべきことを示した偉大な貴方よ。
「私は誓ったのだ……」
盲目であることを忘れた私に、獣失格だと笑顔を浮かべた我が王に。
私を愛し、許しと、愛する喜びを与えてくれた妻に。
過去の罪を知りながらも、強く私を信じる娘に。
守るべき者のため剣を握るこの手を、信念を以て掲げろと叫ぶ友に。
「この心こそ我が誇り」
たとえ、この身が今宵果てるとも。
「剣を向ける相手は己で決める‼私は二度と、獣には戻らん!!!!」
灼けつく熱は、義憤へと変わった。武装色の覇気を纏った刃が歪む視界の奥でシーザー・クラウンを違わず斬り裂く。
夜に包まれたコロシアムで、今ははっきりと打ち倒すべき相手の姿が見えていた。
「イッテェな馬鹿が!!獣同士潰し合ってりゃいいものを!!!」
「調子上がってきたじゃねえか!キュロス!"蛇の剣"!!!」
散った火花がガスのような異臭に着火し、大きく炎を上げる。友はその気流を掴んでひらりと天に舞い上がり、蛇行する刃で男を捕えた。
「てめェら能無しごときにこれを…!"彼方への呼びかけ"!!!」
暗闇が歪み、眼前で星が爆発した。夜の生き物の如く変質した瞳を光が焼く。
「キュロス!!」
「お前はこれで大人しくしてな!!"ガスローブ"!!!」
「…っぐ!」
「シュロロロロロ!!吹き飛べ馬鹿が!!!」
迫る熱に気配と呼べるものはなかった。避けられない。
ドン、という鈍い音と共に、目前で熱が防がれた。その直前の一瞬暗さを取り戻した視界が、何かが盾になったことを示していた。
徐々に色を取り戻した世界の向こうには、先の攻撃で崩れた壁を蹴り飛ばしたままの格好の男。一際大きかったのだろう瓦礫は、爆発により生まれた光に打ち壊されて私の前に転がっている。
「…麦わら」
黒々とした怒りを纏った男が一人、この闘技場の入り口に、麦わら帽のつばを押さえて立っていた。