いまだけ世界は二人のために
兄が親を殺し、二人で親父の船から逃げた先で、おれたちは一隻の小さな貨物船に拾われた。
兄が今まで海賊に捕まっていて、売られかけていたところを命からがら逃げ出してきた、と説明すると、恰幅のいい船長は涙目でうなずき、俺たちを船に乗せた。
両親を殺して一日も経っていないのに、どうしてそんな平然と取り繕えるのか。おれは兄がどんどんわからなくなっていた。
「航路に商売が盛んな街があるみたい。そこで降ろしてもらおうか」
夕飯にもらったサンドイッチを食べ終え、世話になる間借りることになった船内の空き部屋で、俺たちは一つのベッドでこれからのことを話していた。
と言っても、当時まだ10にもなっていなかったおれは、4歳年上の兄の言う事を聞く以外に道はなかったわけだが。
「お兄ちゃんはね、裁縫が得意なんだ。鋏も針も糸もうまく使える。上手く行けば仕立て屋さんで雇ってもらえるかもしれない。船長さんも頼んでくれるらしいよ」
「……」
正直な話、おれは兄のことをよく知らなかった。物心ついたときからよく側にいたことは覚えていたが、それは兄が両親からの弟の面倒を見るように、という言いつけを守っているだけに過ぎず、おれへの思い入れがあるわけではない、と思っていた。
兄は大体のことをうまくこなせる子供だった。そしてそれと同時に、他人への興味が薄い子供でもあった。
昔、兄が生まれるより前から在籍していた船員が、兄に鋏で顔を斬られたことがあった。兄の気に障ることを言ったのかやったのか、それはよく知らないが、とにかく兄はその船員を斬りつけた。
その船員は酔うとおれが坊ちゃんのおむつを替えてやったんだ、と繰り返し話していた。坊ちゃん、というのは兄のことだ。
長男である兄は、生まれたときから海賊団の跡継ぎになることが決められていた。だから、あの船員は兄を坊ちゃんと呼び、ことあるごとに媚を売っていた。そうすれば後々組織内での立ち場が安定するとでも思ったのだろう。
ところが、残念なことに。顔を斬りつけた兄の第一声は、その努力が無駄だという証明に他ならなかった。
「ていうか、誰だよお前」
生まれたときから顔見知りの人間すら、興味がなければ名前を覚えようともしない。そんな兄が、なぜ親を殺し跡継ぎの立場を捨ててまでおれを助けたのか、あの頃のおれにはわからなかった。
「……クロ、どうしたの?」
「……!」
兄がおれの顔を覗き込んだ。おれとは真逆の横に長い瞳孔の上に、おれの顔が歪んで映っていた。
「体調悪い? お腹空いちゃったかな? どうしよう、なにかもらえるといいんだけど……」
「……なんで」
当時のおれは、9歳のガキだった。
「なんで、おれのこと助けに来たの」
「……」
「なんで……放って置かなかったんだ」
胸の内にある不安と疑問を堪えきれず、口から零す。何をされるかわからない怖さを感じたまま。
「……クロ」
兄はおれの両腕をそっと握った。
「えいっ」
そしてそのまま、抱き寄せてベッドに横向きになるように倒れた。
「っ……! な、んだよ」
「ふふふ、クロ、これを見なさい」
兄は自分の目を指差し、得意げに笑う。
「おそろい!」
「え……?」
見ると、いつもは横向きの兄の瞳孔が、俺と同じく縦向きになっていた。
「ほんとだ! なんで…………じゃなくて!」
素直に驚いてしまったのを恥じらうおれの頭を、兄が抱え込むように抱きしめてわしゃわしゃ撫でる。
「クロ」
「……なに」
「クーロ」
「なんだよ」
「ク〜〜ロ〜〜っ」
「なんなんだよっ」
あまり聞いたことがない、だけど確かに聞き覚えのある兄の優しくて明るい声。
聞いたことが少ないのに聞き覚えがある、なんて不思議だ、と頭の片隅で思いながら、兄の言葉を聞いた。
「だいすきだよ」
「……」
「お兄ちゃんはクロが大好きで、だから今こうしてる」
「……」
「でもねえ、クロ。お兄ちゃんがクロを大好きで一緒にいたくても、クロは自分のやりたいことをしていいんだよ」
「……?」
身をよじって兄の腕から少し抜ける。兄の顔を見ると、やっぱり笑っていた。
「兄貴は、おれを助けるために……色々やったんだろ?」
「そうだね」
「なのにおれがやりたいことして、なんとも思わないのかよ。もしおれが兄貴から離れたらどうすんだよ」
「うーん。……寂しいけど、それはそれでいいよ」
「……」
「今のクロを一人にするのは危険だから、大きくなってからにしてほしいけどね。……クロがちゃんと大きくなって、自分のやりたいことをしていてくれたら、お兄ちゃんはそれだけでいいんだよ」
「……ばかみてーだ、それって」
「ふふ。まだ難しいかな。大丈夫、わかんなくていいよ、まだね」
兄が再度おれを抱きしめた。
「今言ったことだって、クロがいらないなら忘れていいよ。お兄ちゃんの自己満足だもの」
おれはそれを聞いても、まだよくわからなかった。兄のその言葉は、おれたちが育ったあの船……実の子供を人間屋に売るようなところ……では、おおよそ通用しないものだったからだ。
だが、それでも。一つだけわかったことがあった。
この腕の中はきっと、誰にも傷つけられない場所だ。
言葉に込められた意味を上手く飲み下せないまま、それだけを、おれは確かに感じ取っていた。
秋の始めになると思い出す。
いつもは撃たれても死なないような母が、一晩中うめき、苦しんでいた。私は真夜中、その凄まじい声に起こされた。驚き、何事かと父に尋ねると、父はお前の弟が生まれるのだとどうとでもないことのように答えた。
弟。そういえば、母の腹が最近大きくなっていた気がする。
私は納得し、敵襲でないならと己の寝床に戻った。
それから数日経った、特になんの変哲もない日。私掠船は常に忙しくしていて、船員には子供を構う余裕などない。だから、私は幼少期、一人遊びが好きな子供だった。
絵を描いたり、本を読んだり、たまに両親に言いつけられた仕事や勉強をこなしたり。
その日、私はとうとうそれら全てに飽きてしまった。何か退屈をしのげるものはないか、と考えていると、ふと数日前のことを思い出した。
弟。生まれたばかりの、赤子の弟。船員が呼んでいた名前は確か、クロコダイル。
私は赤子をあまり見たことがなかった。丁度いい、見に行ってみようと、私は船員に弟の居所を聞き出し、向かった。
船の中で寝室から一番離れた部屋。ドアを開けると、部屋の真ん中にゆりかごが一つ、波に揺れていた。
そっと近づき、中を覗き込む。
ゆりかごの中には色の白い、でも頬や手は赤い、小さな小さな赤子が眠っていた。
不思議なことに私は、その子に目が釘付けになった。ただ眠っているだけの、喋りもしない、無力なその子から、何故か目が離せなくなった。
全身が震えた。そのままに、そっと、弟の頬に手で触れる。ふわ、と優しい感触がした。
すると、あぅ、と弟が口を開く。私は焦った。赤子は泣くものらしい。船員の誰かが言っていたことを思い出し、意味もないのに身構えた。
小さな声をさせながら、弟がゆっくりと目を開いた。縦に長い瞳孔の入った綺麗な瞳と目が合う。その、数秒後。
弟が、私を見て、きゃ、きゃ、と笑った。その小さな身体すべてを使って、その瞳に映った私を見て、確かに笑った。
それを理解した瞬間、目の奥が急に熱くなった。
なんだろう、と顔を触ってみて気づく。私は泣いていた。悲しくもないのに、辛くもないのに、痛くもないのに、両眼から大粒の涙が溢れて止まらなかった。
私は混乱しながらも、笑う弟から目を離せずに恐る恐る口を開いた。早鐘を打つ心臓、いつもと調子のずれた声で、意味は知っていても実感が無かったその言葉を、ほとんど無意識に呟いた。
おにいちゃんだよ。
弟が笑う。私が言う。
おにいちゃんだよ。クロコダイル。クロコダイルの、おにいちゃんだよ。
秋の始めになると思い出す。もう四十年以上前の、9月。私と弟が、初めて会った日のことを。
弟が私に、愛をくれた日のことを。