いほうのひめ
※異邦の姫。水星の生活についての独自設定と、とある童話についての独自解釈があります
ツルツル星人、という不名誉な呼び名を付けられてから、少しの後。
「…僕の名前はエランだよ。エランって呼んで」
エラン・ケレスは早くもその呼び名を回避しようと奮闘していた。
お互いにとって衝撃的だった第二のファーストコンタクトを経て、さき程はほんの少しだけ歩み寄る事ができたと思う。明らかにエランに対しての少女の反応は柔らかくなった。
だから少しばかりの欲が出た。訳の分からない呼び方ではなく、きちんとした名前で呼んで欲しい。
スレッタ・マーキュリーが呼んでくれるなら名前なんてどうでもいい…。そう思っていたが、流石に『ツルツル星人』は人の名前ではない。
クーフェイ老の後ろに隠れたままのスレッタは、特に返事をしてくれずモジモジしている。
まだ怖がっているのだろうか、それとも恥ずかしがっている…?
いまいち判断が付かないが、根気よくお願いすればきっと呼んでくれるはずだ。エランはそう信じて、もう一度お願いしようと口を開いた。
すると。
「あのね…」
モジモジしたままのスレッタが、小さく口を開いた。
名前を呼んでくれる気になったのだろうか。そう思って明るい気持ちになったが、次の瞬間スレッタの口から出た言葉に硬直した。
「おしっこ」
「───」
頭の中が真っ白になったエランを余所に、クーフェイ老が「そりゃあ大変だ」と大げさに声を出した。
「いっぱいココアを飲んだからなぁ。すぐにトイレに連れてやってやろうな。使い方も教えるから、もうちょっとだけ我慢できるか?」
こくんと頷くスレッタを連れて、クーフェイ老が部屋から出て行く。
「………」
それをエランは、硬直したまま見守っていた。
しばらく部屋でウロウロした後、エランはどうしてもスレッタの事が気になってトイレの近くまで行く事にした。
使い方を教えるとクーフェイ老は言っていたが、まさか中で直接見守っていやしないかと心配になったのだ。
考えすぎだったようで、トイレの前には老人が立ってスレッタが出て来るのを待っていた。
「なんだ、来たのか」
「あの…。はい」
変態だと思われないだろうか…。そんな心配でソワソワしてしまう。こんな気持ちになっている事も、もしかしたら老人には筒抜けなのかもしれない。
クーフェイ老は何も言わずに、エランがそばに居るのを許してくれた。
しばらくして、中からジャーッと水を流す音が聞こえてきた。エランは詳しい音を聞かないように少し離れた場所に立っていたが、これくらいの大きい音は聞こえてしまう。
「ちゃんと教えた通り水を流せたな。えらいぞ。次は手を洗おうか」
「はーい」
スレッタとクーフェイ老の会話を聞きながら、何だか居たたまれない気持ちになってくる。
会話だけ聞いていたら、祖父と孫のような微笑ましいものなのだ。けれど女の子の声はエランの知っているスレッタのもので、姿かたちも彼女のものだ。
本人なので当たり前だ。…当たり前なのだが、スレッタの言わないような事を平気で言ったり、喋り方や声音がまったく違う女の子の存在に、エランは混乱したままだった。
トイレから出て来たスレッタは、濡れた手をクーフェイ老に拭かれながらニコニコしていた。そして興奮したように「おみずがいっぱいですごい!」とはしゃいでいる。
その様子を見て、エランはスレッタから聞いた水星の話を思い出していた。
水星基地ではありとあらゆるものが貴重品扱いで、水もその中のひとつに入る。水自体は水星からでも取れるらしいが、雨になって降り注ぐ訳ではない。水は氷の塊となって、太陽から隠れた極地のクレーターの底に存在している。
それらを水として使うには、クレーターの底から氷の塊を切り出して基地まで移動させる必要がある。更に氷を溶かして不純物を濾過して…。そんな風に大変な労力をかけて、ようやく資源として役に立つようになる。
水星基地に住んでいる人々は、そのほとんどがパーメットを採るためだけに存在している。彼らは何より採掘を優先しなければならず、水を潤沢に用意しているだけの余裕はない。
だから確保してきた水は出来るだけ節約して、更に循環させてリサイクルもしなければ生活は立ち行かなくなる。
地球に降りて来て旅をしていた頃。雨の中をレインコートを着ながら歩いた時に、スレッタ本人から教わった話だ。
彼女は楽しそうに雨に打たれながら、手のひらを上に向けて雨粒を集めていた。手で出来た皿にほんの少し溜まった雨水を見つめながら、彼女は言った。
『何だか勿体ないですね。降ってきたお水を大きなシートで集めて包んで、全部纏めて水星基地に送れたらいいのに』
スレッタらしい無邪気で優しい言葉だった。それに対して自分は何を言っただろうか。
『雨を全部集めたら、ここの植物が育たなくなるよ』
…なんて、彼女の優しさを台無しにするような事を言っていたような気がする。
スレッタはそんな情緒の無い自分に怒る事もなく、植物さんが可哀想だから諦めます、と言って笑っていた。
トイレから出て落ち着いたスレッタは、またクーフェイ老の後ろに隠れてしまった。
それでもこちらをチラチラと見ているので、先程よりは慣れてくれたようだ。
エランはまた名前を呼んでもらうように頼もうかと思ったが、あまりしつこくするのも嫌われるかもしれないので今は黙る事にした。
クーフェイ老が腹を擦りながら、気まずくなりそうな沈黙の中で呑気な声をあげる。
「スレッタお嬢さんの部屋に戻るのも何だし、このまま居間に行って朝食にするか」
「ごはん!」
スレッタがぴょこっと小さく飛び跳ねた。彼女は小さな頃から、食べることが好きだったようだ。
老人と一緒にスレッタが嬉しそうに歩いていく。無視をされた格好になったエランは、少しの寂しさを感じながらも後に続いた。
この家はキッチンとリビングがひとつになった作りをしている。窓は大きく、薄手のカーテンから太陽の光がチラチラと差し込む。すでに早朝の弱い光ではなく、力強い朝の光に変化していた。
今日だけで何度も往復したので、エランにとっては家の中でもなじみ深い場所になりつつある。
居間に着いたスレッタは、その明るさにとても驚いたようだ。
光の光源を探してきょろきょろと頭を動かして、窓の外を見るとビックリして固まっている。
「…ここは地球だから、この光は自然のものなんだよ」
ほんの少しだけ近くに寄って、そっと話しかけてみる。
スレッタはクーフェイ老の後ろに隠れようとして、でもエランの言ったことが気になったのか、戸惑ったようにこちらを見た。
「しぜんのひかりってなぁに…?エアリアルがキラキラひかってるのとはちがうの…?」
意味を完全に理解することは出来なかったが、恐らくエアリアルのパーメットの光か、装甲の反射光のことを言っているのだろうと思った。
どちらも自然光ではないが、子どもの目から見たら判断が出来ないのだろう。水星基地で暮らすことは、窓のない室内にいるようなものなのだ。
「太陽は分かる?水星では怖いものだと聞いたけど、この地球では光を届けてくれる貴重な存在なんだよ。この光だって、全部太陽のものなんだ」
「うそだぉ」
目を丸くするスレッタが微笑ましい。エランと一緒に旅をした彼女も、地球の太陽に驚いた事があったのかもしれない。
「嘘じゃないよ。もう少ししたら太陽が上に来るから、もしかしたら窓から見えるかもね」
「しんじゃう?」
「死なないよ。地球の太陽の光は弱いから、大丈夫」
エランとスレッタが喋っている間に、クーフェイ老が食事の準備をしてくれる。
「お前ら、飯だぞ」
昨日買ってきたいくつかのパンと、総菜の残り。そしてグラスの中に注がれた水道水。これが今日の朝食のメニューだ。
この家の水道水は驚くべきことに直接飲んでもいい水らしい。近くの地底湖から汲み上げているようで、飲み口は柔らかくてすっきりしている。ミネラルウォーターを買わなくて済むのはありがたい。
窓の外に興味津々だったスレッタは、途端にテーブルの方に行ってしまった。色々な色や形のパンを見て、嬉しそうにはしゃいでいる。
またもや無視された形になったが、エランはもう寂しさは感じなかった。
スレッタが色々なパンを食べたがったので、それぞれを半分に切って食べることにした。エランも初めて見るものが多い。ほとんどが副食を混ぜ込んだり挟んだりしているもので、バターが無くても美味しく食べられる。
「うまいか?スレッタお嬢さん」
「おいしい!」
体は大人のものなので、好奇心のままにスレッタはたくさんのパンをお腹に詰め込んでいる。少し多めに買ったのだが、食事が終わるころにはもうパンは無くなっていた。
「午前中に一度買い出しに行かなくちゃダメそうだ」
クーフェイ老が苦笑しながらエランに話しかける。元々午後から買い出しに出かけるつもりだったので、それが少し早まった形だ。
「本当は店の場所なんかを案内したかったんだが、今日のところは俺ひとりで行ってくる。お前はお嬢さんについててやれ」
この状態のスレッタをひとりにするのは危ないので、老人の判断は妥当なものだ。正直なところこの家で彼女と二人にされるのはそれはそれで不安だったが、エランは反論することなくコクリと頷いた。
「おかいもの?ふねがきてるの?」
スレッタが二人の会話に混ざってくる。敷紙についたパンの欠片を一生懸命拾って食べていたので、聞こえているとは思っていなかった
船?とクーフェイ老は首を傾げていたが、エランは彼女の言っている意味が分かった。
「水星とは違って、地球では家の外に色々なお店が建ってるんだ。皆そこに行って買い物するんだよ」
水星には店なんてない。定期的に来る輸送船から運ばれた物資をそれぞれの家庭に割り当てる。更に娯楽品や嗜好品なども僅かに積まれていて、それは各家庭が金を払って個別に手に入れる。
スレッタにとっては何でも売っている雑貨屋が船の形をして訪れているようなものだ。だから買い物という言葉を聞いて、船が来ることを連想したのだろう。
エランの言葉はスレッタの興味を引いたようだった。
「おそとのおみせ…スレッタもいける?」
「あ…」
まずい、と咄嗟に思って、エランは思わずすげない言葉を告げてしまった。
「いや、お店は遠い所にあるから、きみは連れていけないよ」
エランの言葉を聞いて、途端にスレッタの眉が悲しそうに下がってしまう。また言葉選びを間違ってしまった。
内心でオロオロしていると、クーフェイ老が「スレッタお嬢さんが喜ぶようなうまいものを買ってきてやる。楽しみに待ってろ」とすかさずフォローしてくれた。
スレッタの機嫌は直ったが、彼女はまた老人に纏わりつき始めた。ほんの少し縮まったと思った心の距離は、また少し開いてしまったようだ。
落ち込むエランを余所に、クーフェイ老とスレッタは楽しそうにしている。今は食後の散歩と称して、家の中を案内する話になっていた。
この家は敷地に対して小ぶりな作りになっているが、それでもアパートよりは遥かに大きい。老人とスレッタに割り当てられた部屋の他にも、まだ掃除が終わっていない場所が何部屋もある。
前日に案内してくれたが、今のスレッタにはその記憶がない。だからこの家を探検できると聞いて嬉しそうにしている。
「部屋の中には子供部屋もあるからな。いくつか遊び道具も残ってるから、後で見てみよう」
「おもちゃ?」
「おう、女の子向けのもあると思うぞ」
「すごいー」
「…子供部屋?クーフェイさん、お子さんがいたんですか」
驚きのあまり、つい話しかけてしまった。何となく独身だと思い込んでいたのだ。
エランの失礼とも思える言葉に、クーフェイ老はふんっと鼻を鳴らした。
「前の管理人がいると言っただろ、ありゃ娘の事だ。後で連絡先を渡しとくから、暇があったら連絡しとけ」
「娘さん…」
「孫もいるぞ。お前より少し大きいくらいの」
なら子供部屋というのは、お孫さんのものなのだろうか。女の子向けのおもちゃがあると言うなら、もしかしたらお孫さんも女性なのかもしれない。
スレッタの扱いが上手いのは、娘や孫を育てた経験があるからか。エランはそう結論付けながら、心のどこかでホッとしていた。
スレッタがクーフェイ老に懐いても仕方ない、そう納得するだけの理由付けが自分の中で出来たからだ。
いくつかの部屋、トイレ、風呂。物置になっている屋根裏部屋などを見て、スレッタは大興奮していた。
最後に子供部屋に入る。ここは昨日は中まで入らなかった部屋だ。
頑丈そうで可愛らしい印象の家具が置かれていて、所々に子どもが好きそうなオブジェが飾られている。本棚もあり、中には薄くて丈夫そうな本が何冊も立てかけられている。
エランとスレッタが部屋の中を見回している間に、クーフェイ老は大きくて深いクローゼット(押入れと言うらしい)の中からいくつかの箱を取り出した。
その内のひとつを老人が開ける。覗き込むと、カラフルな色鉛筆やクレヨンといった画材に、大きな画用紙などが詰め込まれていた。
「けっこうそのまま残ってるもんだな。ままごと道具やクレヨンなんかもあるぞ」
「わーすごい!」
スレッタが夢中になっている間に、その他の箱も開けて確認してみる。よく分からないキャラクターの人形や、知育玩具。中には使い古したスポーツ用具が入っている箱もあった。
エランの育った村ではあまりオモチャの類は流通していなかった。だから初めて見るものがたくさんある。
何となく興味を惹かれて、野球用のグローブを手に取る。
子ども用なのでエランには小さい。でも見ているだけでも心が浮き立つような、不思議な感覚がある。
細かい傷がたくさん付いている飴色の皮。独特の匂いがするが、臭いと言うほどではない。これとボールがひとつあれば、子供の頃のエランなら兄と一緒に何時間でも遊んでいられただろう。
エランは少しほつれた編み目を指先でなぞったあと、そっとグローブを箱に戻した。
他にもバッドやいくつかのラケット、大きさや固さの違うボール。本当に色々と入っている。
「こっちの箱は、男の子用ですか?」
男の子用と、女の子用、きっぱりと分かれているような気がした。クーフェイ老のお孫さんは二人以上いるのかもしれない。
「男女というか、まぁ、外で遊ぶ用だな。庭は広いから色々と遊べる。使うかどうかはお前の好きにしろ」
「………」
スレッタをどの程度自由にさせるか、その采配はすべてエランに任せるという事だろう。
「…少し、考えてみます」
家主としての権限は使わずに、一歩引いてくれている。そんなクーフェイ老の配慮をありがたく思った。
「さて、暇を潰せる道具も見つけたし、俺は買い物に出かけてくる」
いつの間にか朝食を食べてから一時間近く経っていた。この家の周辺には大きな店などなかったので、早めに動かないと昼食の時間が遅れてしまう。
「分かりました。どれくらい掛かりそうですか?」
「色々と買うからな…。車で行っても早くて一時間くらいか」
「…クフェおじいちゃん…。いっちゃうの?」
色鉛筆を見ていたスレッタが、寂しそうな声を出す。見知らぬ場所でようやく打ち解けた相手がどこかへ行くと知って、不安になったのだろう。
「すまんな、できるだけ早めに帰ってくるぞ。スレッタお嬢さんはその間、このツルツル星人と遊んで待ってな」
「う~…」
クーフェイ老の言葉にスレッタの口から不満そうな声が漏れる。いちいち傷ついていては身が持たないので心を鎮めようとしていると、老人がこちらに振り向いて、大げさに声をあげた。
「ああ、いかんなぁ。ツルツル星人がよわってるなぁ」
「───は?」
「そうなの?」
「ツルツル星人は傷つきやすいって言ったろ?お嬢さんが嫌がってばかりだと、そのうちこいつは弱ってシオシオになっちまうぞ」
「しんじゃう?」
「死にはしないだろうが、大泣きしちまうかもなぁ」
そんな情けない事にはならない、と否定したかったが、この発言はクーフェイ老からの気遣いからくるものだと理解はできるので、エランは何も言わずに黙ったままでいた。
その代わりにスレッタの方を見ると、彼女もこちらをジッと見つめていた。眉がへにょんと下がっていて、悪い事をしてしまったという顔をしている。
何となくそのまま、二人で見つめ合ってみる。
「………」
「………」
「まぁスレッタお嬢さんは好きに遊んでいたらいい。紙もペンもいくらでも使っていいぞ。ただ危ない事はあんまりしないようにな。…じゃあ行ってくる」
「お気をつけて」
「…いってらっしゃい」
渋々という様子のスレッタと一緒にクーフェイ老を玄関先から見送る。表門の方からは車でも行き来できるようで、車のエンジン音が少しずつ遠ざかって行った。
「…スレッタ・マーキュリー、その…。子供部屋で遊ぶ?」
「……うん」
まだ少し警戒しているスレッタを連れて、子供部屋に戻る。
スレッタは外に出したままだった画用紙とクレヨンを手に取って、こちらをチラチラと見ながらも何かを描き始めた。
エランは彼女の気が散らないようにジッと見る事を止めて、棚の中から適当な本を手に取って眺めてみる。
公用語ではなく、恐らく現地語で書かれた絵本だ。可愛らしいイラストと一緒に、基本となる『ひらがな』の文字が書かれている。もしかしたら『カタカナ』という別の文字も書かれているのかもしれないが、まだエランにはしっかりした区別がつかなかった。
そのまま本のページを捲っていくと、文字は読めないながらも何となくのストーリーは分かるようになっていた。しばらくの時間つぶしはできそうだ。
チクタク。
チクタク。
黙っていると、時計の針の音がとても大きく聞こえてくる。同時にスレッタがザッザッと画用紙にクレヨンを塗り付ける音も耳に届く。
チクタク。
ザッザッ。
チクタク。
ザッザッ。
時間の進みがいやに遅い。
エランは出来るだけ音を立てないようにいくつかの絵本を開いて、何とか時間を潰そうとした。
チクタク。
チクタク…。
その内に、クレヨンの音がしなくなっているのにふと気づく。
何冊目かの絵本から顔をあげると、スレッタがクレヨンを持ったままこちらをジッと見上げていた。
「…どうしたの?もしかして、喉が渇いた?」
驚かせないように細心の注意を払って問いかけると、スレッタは小さく首を振った。そしてエランの持っている本を指さして、声をあげた。
「スレッタもみたい」
それは覚えている限りで、初めての自分への積極的な要求だった。エランはパチリと目を瞬かせて、思わず手に持っている絵本を見下ろす。
『にんぎょひめ(The Little Mermaid)』
恐らくは、そう書かれている。
流し見た限りでは、世界的に有名なアンデルセンの童話を元にした絵本だ。表紙に美しい人魚姫の絵が描かれていて、だからスレッタも気になったんだろう。
「分かった。いいよ」
エランはゆっくりと本を閉じて、そのままスレッタに渡そうとした。自分がそばにいては落ち着いて本も読めないだろう。そう思ったからだ。
けれどスレッタはそのまま四つん這いになってこちらへと近づき、絵本の表紙を覗き込むようにエランの隣へ来てしまった。
思ってもみない行動に驚いている間に、スレッタの言葉が耳に届く。
「みせて」
混乱したまま、エランは絵本を開いた。
美しい海の底の描写。その中を泳ぐ、綺麗で可愛らしい人魚姫。
「わぁ」
と言った後、口を半開きにしたまま、スレッタは綺麗な挿絵に見入り始めた。
そしてページの端から端までじっくりと見た後に、エランに次の要求をしてきた。
「よんで」
現地語で書いてあるから、エランにもなんて書いてあるのか分からない。
けれど物語自体は知っている。本を読んだのか、誰かに聞いたのか。覚えていないが内容は分かっている。
エランは挿絵を見ながら、覚えている限りでの人魚姫の物語を、小さな子にも分かりやすいような言葉を使って話すことにした。
海の底にある王国。そこを泳ぐたくさんの人魚たちや、王様の血を引く何人もの姫たち。その中で一番若い、美しくて無邪気な人魚姫。
ある日人間の国の船がその上を通り、中からひとりの人間の王子が投げ出された。人魚姫は彼を助け、地上へと送り届ける。
そうして、王子に恋をしてしまう。
どうしても会いたくなった人魚姫は、魔女にお願いすることにした。
綺麗な声を魔女に渡して、人間の足を手に入れる。そうして地上に上がった人魚姫は、王子と再会することができた。
けれど王子にはすでに婚約者がいた。相手は地上で倒れる彼を介抱した、彼の恩人である人間の姫だ。
もうひとりの恩人である人魚姫は王子を助けた事を話せない。声はもう魔女に渡してしまった。
真実の愛が手に入らなければ、人魚姫は泡になって消えてしまう。
心配した姉姫たちが人魚姫にナイフを渡してきた。王子を殺せば、あなたは助かる。
けれど人魚姫は首を振り、王子への愛だけを胸に抱いて、彼女は海に身を投げた。
そうして、泡になった人魚姫は波の狭間へと消えてしまった。
「………」
「……にんぎょひめ、しんじゃったの…?」
挿絵はここで終わっている。エランはお終いだと言おうとして、続きの言葉を口にしていた。
「…泡になった人魚姫は、今度は精霊に生まれ変わった。風の精霊になった彼女は、海よりも地上よりも高い高い空に昇って、そうして、空の国に行けるようになった。彼女は誰よりも優しくて…だから、綺麗な精霊になれたんだよ」
「しなない?しあわせになれたの?」
「幸せになれたよ」
めでたし。めでたし。
そう締めくくれば、多少は強引でも話は結べる。
エランはぱたりと本を閉じて、絵本をそのままスレッタに渡してあげた。
スレッタはもう一度表紙を見て、ひっくり返して裏表紙を見て、そうして絵本を盾のように顔の前に構えながら、最後にそっとエランを見た。
「ありがと…」
「どういたしまして」
時計を見ると、いつの間にか昼にほど近い時間になっている。クーフェイ老が帰ってくるまでは、何とか彼女の機嫌を損ねずに済みそうだ。
エランはホッとしながら、絵本を開くのに苦戦しているスレッタの様子を見守った。明らかに本を読むのに慣れていない様子で、宇宙での紙は貴重品だった事を思い出す。
もしかしたら紙の本を初めて見たのかもしれない。見ればスレッタの描いた絵も、一枚の画用紙しか使っていないようだった。
「………」
水星の中しか知らない女の子。小さなスレッタ・マーキュリー。
彼女は人魚姫と同じように、地上の事など何も知らない異邦人だ。
「つるつるせいじんさん、もういっかいよんで」
「…いいよ」
エランはもう一度人魚姫を読み聞かせながら、改めてすぐ隣にいる女の子を守ろうと誓った。
海の泡になる前に、あらゆるものから彼女を守る。
ナイフを渡さず、魔女と契約させず、王子とは出会わせないように。
船を飲み込む怪物になれれば、彼女を守れるような気がした。