いつでも、誰かが
Name?夜。
アラバスタが首都、アルバーナ、宮前広場──。
日が陰り、昼間の熱もどこへやら。今は涼しい夜風が、灯されたかがり火の炎を優しく揺らしていく。空には雲一つなく、満天に広がる星屑の海を渡っていくかのように、丸い月がゆっくりと昇り始めていた。
その夜風が運ぶのは、微かな煙の香と、そして食欲をそそるような、様々な香辛料の香り──。
広場に設営された、特設ステージと、そして広場を越えて大通りにまで置かれた長机や食事の屋台の列。
人々は食事と酒と喧騒を楽しむ。なにしろ、今回のイベントにかかる費用は全て国がもってくれるのだ。
ある者は、日頃の疲れを忘れるように。
ある者は、溜まるストレスを吹き飛ばすように。
ある者は、悲しい怒りの記憶から逃れるように。
ある者は、この国の未来を願って。
思い思いに、この“宴”を楽しんでいた。
そして、それを彩るのは、カトレアズ・バンドクラブによるバックミュージック。
ジャズ調の音楽が静かに、しかし確かにその喧騒を支えている。
コントラバスとドラムが作った土台の上に、ギターとピアノ、そしてサックスの音が絡まり合いながら、人混みの中へと染みわたっていく。
小さな乳飲み子から、腰の曲がった老人まで。
その音の上を歩きながら、皆が皆、笑いながらこの時を過ごす。
ともすれば、決して見ることのなかった光景だ。二度と得ることのできなかった機会だ。
とある者たちの手によって、この国が滅ぼされたとしたら。
あるいは、ある者たちの手によって、この国が救われていなかったとしたら。
そのことすらも、この一時だけは全て忘れて、アラバスタの国民はこの狂乱に興じていた。
そして、彼らが待ち望むメインディッシュは……。
ふっ
拡声器から流れていた音楽が、不意に止まった。
人々の間に、沈黙が波紋のように広がり、次いで喧騒ではないどよめきが波及する。
「ねえ、あれ!」
誰かが声を上げると、人々は皆、特設ステージの方へと視線を向けた。
ステージの後ろに取り付けられたモニターに浮かび上がる、“宴”の文字と、そして二人の音楽家のシルエット。
次の瞬間、ライトアップされたステージの上に、彼らは立っていた。
「さあみんな! ライブの時間だよ!!」
モニターに、“歌姫”が映し出され、群衆から歓声が上がる。
「今夜は最ッ高の夜にしようぜBABY!」
モニターに“魂王”が映し出され、群衆から歓声が上がる。
「ファーストミュージック、“宴《フェスティバル》”!!」
ウタの宣言に、ブルックがギターをかき鳴らして応える。
民衆が、待ってましたと言わんばかりに喝采を送る。
広場にいる人たちはもちろん、家で酒場で映像電伝虫を通じて見ている者すべてが、砂漠に負けないほどの熱量を持ってそれを歓迎した。
カトレアズ・バンドクラブによる伴奏が始まる。
「さあ、今夜は寝かさないよ! 盛り上がっていこう!!」
ウタが付き出した左拳に、民衆も拳を突き出して応える。
熱狂冷めやらぬままに、祭りの夜は更けてゆく……。
──────
真夜中──。
星空を泳いでいた満月は西の空へと傾き始め、宴の夜は終わりを告げていた。
つい数刻前までの狂騒はどこへやら、静まり返った王都には、乾いた冷たい風が吹くのみである。
王族の暮らすイルバーナの宮殿の、来客者用の寝室。
いくつかのベッドの並ぶ広い部屋を、贅沢に独占する少女が一人。
ウタである。
「うへへ、パンケーキ……、パンケーキ……Zzz」
ふかふかのベッドに埋もれて、おそらくとても幸せな夢を見ているのだろう。寝言を言いながらもその口元は緩み、そしてよだれを垂らして眠っていた。
身に着けているのは、十人に聞けば九人が『ダサい』と評するであろう、彼女の私服のティーシャツ。
よほどライブで疲れたのだろう。その表情と寝言を除けば、実に穏やかに寝入っていた。
と──
がちゃ
不意にドアノブがひねられる音がした。
「はぅあ!」
その音に、ウタはガバリと飛び起きる。
「……あれ?」
きょとんと眼をぱちくりさせて、ウタは両手で自分の目を擦った。
「えっと、わたし……?」
ウタの頭はまだ覚醒していないのか、彼女は寝起きの涙目で見覚えのない部屋を見渡す。
「ふふっ、ごめんなさい、起こしちゃった?」
先ほどドアを開いた人物が、ウタのそんな様子を見ながらクスリと笑った。
ウタがそちらに目を向けると、はっきりとしてきたウタの瞳が映すのは、端正な顔立ちと艶やかな青色の髪の毛──。
あっ、と声を漏らすや否や、ウタは一瞬で布団の上に正座する。
思い出したのだ。王女からライブが終わった後に、談話室でいろいろとお話をしたいと言われていたことを。
「ご、ごめんなさいーっ!」
ウタは布団の上で平に謝る。
ウタも約束を破りたかったわけではない。ただ、湯あみをして、談話室で待っているうちに、ついうっかり眠ってしまったのだ。今回のライブでは、より盛り上げるため、途中でウタウタの力を少しだけ使ったせいで、疲労度が限界を超えてしまったのが原因だろう。
この部屋をウタが覚えていないのもそのはず、談話室で眠ってしまった彼女を、誰かがこの部屋に運んでくれたからである。
「別に謝らなくてもいいのに」
クスクスと笑いながら、ビビ王女が言った。
ビビ王女はそのままウタの隣のベッドに腰を掛けると、ニコリと微笑んだ。
「まずはライブお疲れ様。ブルックさんとウタさんのおかげで、国中のみんなが素敵な夜を過ごせたわ。ありがとう。あとウタさんも、そんなにかしこまらなくても大丈夫」
自然体な王女の姿に、ウタは言葉に甘えて足を崩し、王女と二人きりという状況への不安を紛らわせるために、枕を胸に抱えた。
二人きりといえば……
「そうだ、ブルックは?」
「さっきまでお話してた。紳士的で愉快な人ね。さすがルフィさんが仲間に入れるだけのことはあるなって」
「ふふっ、でしょ?」
ウタは、音楽仲間であるブルックが褒められて悪い気がしないと同時に、彼女の呼ぶ『ルフィさん』の響きに親愛の情が多分に含まれていることに気が付いた。
そもそも、そうでなければ、ルフィの知り合いというだけで宮殿に招こうなんてしないだろうが。
「あの、ビビ王女って──」
「ビビでいい。ルフィさんの友達なんでしょ?」
「……じゃあ、ビビさんって、ルフィとどういう関係なの?」
ウタからしたら、あのルフィが、王族から親しそうに呼ばれるなんて、何をしたのかが皆目見当がつかない。
ビビはニッと歯を見せて笑うと、左手でガッツポーズを作って言った。
「仲間! 一緒にいろいろと冒険をしたの」
嬉しそうな、誇らしげな声色に、ウタは少しあっけに取られてしまう。
ビビはそんなウタの様子に、窓の外へと視線を向けながら言う。
「……それから、この国を救ってくれた、恩人」
「国を……!?」
「あはは、ブルックさんと同じ反応」
楽しそうに、ビビが笑う。
「ルフィさんらしいと言えばらしいんだけど、国を救ったことも恩に着せようともしないんだから。……えっと、アラバスタ国家転覆未遂事件は知ってる?」
「一応は……」
ウタはそう答えて自分の記憶を漁る。確か、海賊が国家転覆を企み、それを海軍が捕縛したという事件だったはずだ。
まさか、その海賊が──、と考えて、ウタはすぐにその思考を棄却した。そうだとするならば、恩人には決してなり得ないだろうし、親しみを込めて名前を呼ぶこともないだろう。
「……えっと、海軍が悪い海賊を捕まえたんでしょ?」
「世間的にはそうなっているわね」
そう言って、ビビは語り出す。
政府公認の海賊である“王下七武海”の一角であるクロコダイルが結成した組織、B・W《バロックワークス》による、国家転覆計画。そして、数奇な縁からビビのことを仲間として認め、縁もゆかりもなかった国であるアラバスタを救うため、B・W と戦い、壊滅させた“麦わらの一味”の話を。
「──それでね、ブルックさんと話して一番驚いたのが、ルフィさんたちと知り合うきっかけになったアイランドクジラ。まさか彼がブルックさんの仲間だったなんてね。スパイ活動の一環だったとはいえ、悪いことをしちゃったわ。さっきしこたま怒られちゃった」
さしものブルックも、仲間が食料にされかけていたと知って、黙ってはいられなかったようだ。
ビビは楽しそうに、彼らとの冒険譚と戦いの話を続ける。
そしてウタは、その話を楽しそうに、あるいは誇らしげに聞く。
「ねえ、ルフィさんって、昔からそんな感じなの?」
「相変わらずなところもあると思う。昔はもっと弱っちくて、勝負も私の一八三連勝で……」
あの弱いくせに負けず嫌いなへなちょこの幼馴染が、これほどまでの冒険を繰り広げ、一国の王族から感謝される存在になるなんて感慨深い。
ウタの知らない“今の”ルフィの話。それはウタにとって、とても楽しく興味深いものであり、同時に少し寂しいものでもあった。
ウタの知っているルフィと、現在のルフィとの乖離。なんだか、幼馴染がとても遠い存在になってしまったようで……。
(──早く会いたいな……)
今のルフィと会って、いろいろと話をしてみたい。
ブルック曰く、彼は今まで一味の皆に、幼馴染がいたことを話したことなんてなかったそうだ。だから、もしかしたら忘れられちゃっているんじゃないか、なんて不安も、ウタの中にはある。
それでも──。
そういえば、と思い出したようにビビが言う。
「ウタさんって、海賊嫌いって世間では言われていたよね? ルフィさんの話、いろいろしちゃったけど、大丈夫だった?」
「……ブルックと会う前は、本当に海賊が嫌いだったから、海賊になったルフィの話なんて聞きたくなかったかも。……だけど、今わたしが嫌いなのは、クロコダイルみたいな“悪い人”だから、大丈夫」
「……そっか。良かった」
そう言ってから、ビビはウタの顔をじっと見て、再び口を開いた。
「ねえ、ウタさんって、なんで海賊が嫌いだったの?」
あのルフィさんの幼馴染なのに、とビビが尋ねる。
ウタはビビから視線を逃し、窓の外に見える月を見遣った。
「……それは……」
そういえば、とウタは思い出す。その理由を、人に話したことなんて一度もなかったことを。
今まで一緒にいたゴードンは、今更そんな話をする間柄ではないし、ブルックは『自ら話さないのであれば』とそこまで踏み込んでは来なかった。
……どこまで、話していいのだろうか。
わからないままに、ウタの口から、ぽつぽつと言葉が溢れ始める。
「……昔、小さな女の子が、海賊に拾われました。その海賊たちは、気の良い海賊で、売られた喧嘩を買う以外は略奪も何もせず、ただ冒険を純粋に楽しむような、そんな海賊達でした」
つらつらと語られる物語りに、ビビは静かに耳を傾ける。
楽しかった、海賊団と女の子との思い出。
その女の子の才能。
そして、その才能に導かれてか、彼女が辿り着いた音楽の国。
音楽の国に残ってもいいと言われた女の子が、それでも皆と一緒に居たいんだと涙ながらに語ったこと。
「……だけど、その日の夜……、女の子には全てがわからなくなってしまいました」
楽しい音楽会の夜は、一時間も立たずに火の海へと姿を変えてしまった。
女の子が寝ている間に何があったのか。
その亡国の国王は言う。『あの海賊団が略奪のために国を滅ぼした。君は道具として使われ、そして捨てられたのだ』と。
到底女の子には信じられなかった。
あの気のいい海賊たちが、そんなことをするはずがない。そもそも、たったそれっぽっちの宝のために、国を滅ぼすようなことができる人たちではないことを、誰よりも知っていたから。
「……女の子は、港を後にした船に向かって、声がかれるまで泣き叫びました。何が起こったのかと、何でおいて行ったんだと。しかし……だけど、彼らは振り向くこともなかった……」
ウタの語る声が震える。瞳に映った月も、微かに揺れていた。
それでも、女の子は信じていた。
いつか彼らが、迎えに来てくれるのではないかと。
一年が経ち、二年が経ち、それでも一向に、彼らがその亡国に現れることはなかった。
ただ、島に届くのは、彼らの悪名と、そしてそのほか大勢の海賊たちの悪行の知らせ。
年月が経つにつれ、女の子の中での彼らとの思い出は、疑念に呑まれ、そして海賊全体への恨みへと沈んでしまった。
「……今となって考えてみれば、待っているだけじゃなくって、自分から確かめに行けばよかったんだけどね。……そんなことを考える余裕も、なかったんだあ……」
抱えた枕に顔を埋めて、ウタが小さく言う。
ブルックと会えていなかったら、どうなっていたのだろうかと、ウタは思う。
海賊を嫌い、幼馴染も思い出に仕舞われた存在で、そして彼らのことをもう一度でも信じてみようなんて思わなかったのだろうか。そして、そのまま島で朽ちていくだけだったのだろうか。
「わたし、ずっと島に閉じこもっていたから、いろいろとわからなくなっちゃってたんだ。だけど今は、海賊にもブルックみたいなのもいれば、クロコダイルみたいな奴もいるってわかってる。大事なのは、肩書じゃなくって、その人がどんな人なのかなんだって。だから、ルフィが悪い男に成長してないってことを、ブルック以外からも聞けてよかった。ビビさん、ありがとう」
枕から顔を上げて、ウタがビビに微笑んだ。
にっこりと笑い、私も楽しかった、とビビが言う。
「あと、あまり思い出したくない話を思い出させちゃって、ごめんなさい」
ううん、とウタは首を振った。
「話して、少しだけすっきりしたから」
よかった、と言ってビビが立ち上がる。
「ウタさんは、これからも音楽活動をしながら、その人たちに会いに行つもりなんだ?」
「うん、そのつもり」
頷いたウタの目の前に、ビビの左拳が差し出されていた。
ウタが目線を上げると、ビビは優しい目をして言った。
「応援してる。会えると良いわね」
「うん……ありがとう。わたしも、この国がもっといい国になるよう、応援する」
ウタはビビの左拳に、自分の左拳をコツンと付き合わせた。
「ウタさん、またアラバスタに来てね。いろいろお話もしたいし、ライブも楽しみにしてるから」
「また来るよ」
何気ない、小さな約束を交わして、ビビは「おやすみなさい」と部屋を後にした。
ウタはベッドに仰向けに横たわると、再び窓の外に輝く月を見る。
(冒険かァ……)
ビビから聞いた、ルフィとの冒険譚。正直に言えば、羨ましかった。心躍る冒険をしたビビと、そして信頼できるたくさんの仲間を持ったルフィが。
「……会いに、行くから」
月に向かって、小さく呟く。
シャンクスも、ルフィも、同じ月を見ているのだろうか。
一度大きく息を吸って、ゆっくり息を吐いてから、布団を頭から被り、ウタは再び深い眠りへと落ちて行った。