いずれ川の字
平子真子を妻にして良かったことの一つは、彼女が眠る布団から追い出されなくなったことだ。
「ほれ惣右介、早よ入り」
布団を持ち上げて入るように催促する姿など、少し前までは考えられもしなかった。
招き入れられているように思えて目を細めるとあからさまに怪訝な顔をするのがなんとも愉快だ。自分の行動を客観的に見てみれば理解できるだろうに。
「なんや、寝んのか?」
「いえ、少しふっくらしてきたなと」
「ああ……まだ腹はそこまで膨らんどらんやろ」
布団の中に入り自らの身を横たえるとまだ細い体に腕を回して抱き寄せる。これも妻にしてからなんの抵抗もされなくなった。
腹に子供がいるから手を出されないという安心感も理由の一つではあるだろうが、彼女の身に触れることすら簡単に受け入れるようになったことは喜ばしい。
「もう少し大きくなったら、抱きしめるのは後ろからの方がいいかもしれません」
「抱きしめんかったらええやろ」
「並んで寝るには少し狭いですよ」
「お前の図体が無駄にでかいからや」
すっぽりと腕の中におさまった状態では、いつもの憎まれ口も子猫が爪を立てるようなささやかさを感じる。
長い金の髪を指で掬っても梳かすように撫でてもなんの文句も飛んで来ないことがあり得るとは、なにが起こるかわからないものだ。
つむじに口付けるとさすがに身じろぎされたが、それでも文句は言われない上に腕から抜け出されもしない。
「口付けてもいいですか?」
「調子乗りなや惣右介、もう寝るんやろ」
「口付けてくれるなら寝ます」
「甘えたのガキみたァなこと言いよるわ」
おざなりに触れるだけの口付け、というよりはただ唇を押し当てる行為をしたあともう寝ることにしたのかもぞもぞとしばらく動いて落ち着いてしまった。
静かになってしまったのがなんとなく気に入らなくて耳に歯を立てると、咎めるように顎を捕まれる。
「やめぇ言うとるやろ!布団から追い出してもええんやぞ!」
「眠くないんですよ」
「まんま子供やないか、おとんはねんねもできひんって笑われても知らへんぞ」
「この子にですか?」
腹を撫でてみてもなんの反応もない。ただ薄かった腹が中身を得て微かに膨らみを帯びてきた程度の違いがそこにあるだけだ。
妻として獲るために作った子供ではあるが、未だに自分が父親になるのだと言う実感は沸かない。
加えて平子真子が産むということにすら、あまり現実味を覚えていないというのも事実である。
愛などという不確かなものを信じているわけではないが、愛していない男の子供をその身に宿して産み落とすというのは一体どのような心境なのだろうか。
「子供に笑われたないやろ?ええ子にし」
それでも産まれてきたならば彼女は最大限に慈しむに違いない。そうなったら、こうして撫でてくる手も子供のものになってしまうのだろうか。
未だに自分の物にできたと十分に思えていないのに、もう他人に奪われるのかと思うとわずかに暗澹たる気分になる。
「本当に、子供が産まれるんですね」
「なんやねん他人事みたァに言いよって、お前の子やぞ」
「……僕の」
「正確にはお前と俺の子供やな」
「せやから責任取る言うたんやろ」という言葉を聞きながら、抱き寄せた体の首筋に顔を埋めた。
当たり前のように藍染惣右介の子供を産むのだと言ってのける姿は、今までの薄氷の上にあった関係とは乖離している。
まるで本当に愛し合って子供をもうけた夫婦のように、そう振る舞えたとしても本心では信じないだろうに。
それでも夫婦として、産まれてくる子供の両親として振る舞おうとするのだからやはり彼女はよくわからない。
「ほら、寝かしつけてやるからねんねしや」
「僕は子供じゃありませんよ」
「寝れへんでぐずっとるんやから子供とおんなじや、ほらええ子で寝や」
回された手が寝かしつけるようにとんとんと背中を叩く。冬になると氷のように冷える手はそれほど体温が高いわけではないはずなのに温かく感じられた。
自分がまるで力ない存在になったような錯覚を覚えながら、細い体を縋るように抱きしめると叩いていた手が背中を撫でる。
「ずうっと知らんでおったけど、お前は意外と寂しがりやなァ」
「……そんなこと、ないでしょう」
「お前が悪いことせぇへんかったら、俺はここにいたるから安心し」
なにを感じ取ったのかまるで子供をあやすように撫でる手は常とは異なっていて、そこになんとなく母性のようなものを感じた。
腹に子がいるだけで、こうも容易く母になるものだろうか?いや、彼女は元々こういった性質を有していたのだろう。
それが夫相手にも発揮されるようになったから、こうして朝までの同衾を許されるようになったのだろうか。
甘い香りと温かな体温に目を閉じれば、いつものようにからかう響きを持たない小さな笑い声が鼓膜を揺らす。
「おやすみ、惣右介」
柔らかい響きを持ったその声には愛はなくとも慈愛は込められていたように思えた。
少なくとも今日は朝までここで眠れるだろうと軽く足を絡ませても、やはり彼女は咎めなかった。