ある牧場主の手記

ある牧場主の手記


 我が牧場初のクラシック、そしてグランプリホースの引退後の繋養もこの牧場で行うことが決まった、私は「やはりか」と思わざるをえなかった。

 強い馬だった。だがそれ以上に賢さの目立つ馬だった。出遅れは生涯一度としてなく、ペース配分も完璧、そして測ったかのようなタイミングで抜け出しハナ差でレースを制す。まるで人が中に入ったかのような頭の才能は通常産駒に遺伝しにくいと馬産界で言説されているものだ。そういう賢く、そして勝鞍が2500以上のみに限られている馬を種牡馬として求める馬産家は決して多くはない。

 それにも増して彼を敬遠する者が多かったのはその見栄えの悪さだろう。

 白髪鬼。

 零細血統の両親由来の冴えない馬体、まだらに白毛が入り交じるみすぼらしい芦毛の彼をマスメディアはそう評した。ようするに、彼はあらゆる意味で時代に求められなかったのだ。

 だが落胆はなかった。若き日の彼の馴致は私の人生の中でも特に鮮やかな色彩帯びた日だった。

 その産駒を育てようと決心した私の元へ数日後、彼は牧場に戻ってきた。

 おかえり、と私が呼んで頭を撫でてやると、彼はフンと鼻を鳴らすだけだった。この気位の高さはいったいどこ由来なのだろう。苦笑する私を尻目に、彼の目はどこか遠くを見ているようだった。

 彼の繋養を始めて4年が経過し、5度目の春が近づいてきた。

 引退してからも彼の賢さは健在であり、4年の間に行った50にも満たない種付けを彼は作業のように事務的に淡々とこなした。

 しかし零細血統な彼にあてがわれるのはお世辞にも良いとは言えない肌馬ばかり。既に走り始めた初年度の産駒もまた、未だ勝利はおろか入着するものがいないままクラシックを終えようとしている。

 やはり駄目なのかと沈む一方、どうしても彼の血を継がせたかった。

 思えば彼の競走生活は常に逆境の中にあった。幼駒のときは買い手がつかずに我が牧場で引き取り、2歳の頃は負け続き。勇躍を迎えたのは3歳の晩夏、未勝利戦を勝利すると勢いそのまま2桁人気から菊花賞を制覇。暮れの有馬記念でも百花繚乱のスターらを最低人気から退けた。その時々に垣間見せたあの全てをねじ伏せんとするあの鬼のような目。少ない産駒の誰も受け継がなかったあの目は私の心を捉えて離さず、どうしてもその後継をという思いに駆らせた。

 そうして思い悩む私のもとへ、一頭の繁殖牝馬の噂が流れてきた。

 その繁殖牝馬のことはよく知っていた。彼女は我が牧場の彼と同世代であり、そして華やいだオークス馬であったからだ。

 リーディングサイアーの父、名牝の母から産まれ、天性のしなやかさと麗しい栗毛に彩られた彼女。彼女もまた完璧なスタートとラップ管理、そして絶好の抜け出しから、まるで人が生まれ変わったと称する者も少なくなかった。

 だがそれ以上に彼女が有名だったのは、その牡馬嫌いがゆえんであった。新馬戦で他の牡馬に凄まれてパニックを起こして競争中止、一時は引退も噂された彼女はその後未勝利戦から引退までのほとんどを牝馬限定戦で過ごした。

 どうやら彼女の牡馬嫌いは引退してからも治まっていないらしく、これまで4度の種付け全てでパニックを起こし、そしてその全てが不受胎に終わっているというのが私が聞いた話であった。

 その話を聞いたとき、私の脳裏に浮かんだのは彼だった。彼なら彼女と相性が良いかもしれない。興味本位ではなく、根拠はあった。

 2頭が3歳冬に参戦したグランプリ、他の牡馬に凄まれた彼女はパドックで錯乱し、一時は競争中止を危ぶまれる混乱を生じさせた。それを収めたのが彼だった。ひとついなないてその場を鎮めるや緩やかな足取りで彼女に寄り添い、パニックから落ち着くまで傍らを離れなかった。

 当時はその様を美女と野獣とか報われぬ恋とかからかう声も多かったが、どう見てもあれはお互いに通じ合った仲だと私は思わざるを得なかった。

 彼なら彼女を落ち着かせられるかもしれない。彼女なら彼との間に強い仔を育んでくれるかもしれない。

 日に日に強まる空想に逆らえず私は彼女を繋養する牧場に連絡し、どうにか2頭の交配ができないかと伺った。

 彼女に手を焼いていたらしい向こうからすればだめでもともと、藁にすがるようなものであったのだろう。良い返事が帰ってきたのはすぐだった。 

 暗雲の中行われたその日のことを多分一生忘れないだろう。

 種付を嫌うのなら自然の中で自由にさせたほうがいいというベテラン従業員からの進言を取り入れて、繋養先から迎えた彼女を放牧地に放ち、それからすぐに彼を同じ放牧地へと放った。

 万が一備えて柵の外で待機する牧場スタッフらが見守る前で、私達は信じられない光景を目にした。

 その存在を認めるや彼女は一目散に彼のもとへ駆け寄り、彼もまた彼女に駆け寄ったのだ。

 我が目を疑う私達の前で二頭は並んで駆けあい、互いの毛を舐め合ってじゃれ合い続けた。牡馬を恐れる彼女がどうして彼のことは平気なのか。見るもの全てに恐れを抱かせ、牝馬らからも敬遠されるあのみすぼらしい芦毛馬のなにが彼女を落ち着かせるのか。

「私たちに見えない何かがあの二頭にはあるのでしょうか……」

 若い牧場スタッフの声を呆然と聞きながら見守る私の前で突如雷が落ち、二頭の影が一瞬交わったかと思うとすぐに離れた。

 まさかまぐわったのか?あの一瞬で?

 疑って顔を見合わせる私たちを気にせず、二頭はそのまま放牧地で仲睦まじく交流し続けた。日が暮れて二頭を引き離そうとしてもお互い悲しそうに鳴き合い離れようとしない。こんな彼は見たことなかった。種付を事務的にこなしただけで終わる普段の彼の姿とはまるで違う。

 結局相手先の牧場に詫びを入れることにし、その日は二頭を放牧地に放したままにした。「彼女がそれほどそちらの彼を気に入ってるのなら」と向こうが出産までこちらの牧場で繋養を許可してくれたこともあり、私たちは二頭を常に一緒にいさせた。彼は常に彼女を守るかのように傍らにあり、また彼女はそんな彼の愛に包まれるのを受け入れるように寄り添い続けた。

 やがて春が訪れ、彼女は一頭の馬を産んだ。美しい栗毛としなやかな身体は母譲り、そして力強い目元は間違いなく私達が愛した芦毛の彼のそれ。

 その馬がやがて歴史的名馬になることを、出産の喜びを分かち合う私達は知るはずもなかった。

 

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