ありふれたエンドロール

ありふれたエンドロール



或る女の、命の火が尽きようとしている。


白いベッドの上で苦しそうに上下する身体を、じっと見ているひとつの影があった。

寝台に横たわり、呼吸すらもままならない様子となっているのはこの城の王妃である。そんな彼女をベッドの横に立ち尽くして見守るのは、彼女の夫でありこの国の王だ。

王妃は、不治の病に侵されていた。王宮の医師がどれほど手を尽くそうとも根幹から破壊された身体機能は戻らず、それに重ねて無理な出産をしたために長い年月をかけて彼女は衰弱し、いつ身罷ってもおかしくない容態であった。本来なら、出産と同時に命を落とすやもしれなかったため、むしろ産後数年生き抜いたのは奇跡と言っていい。

そんな彼女が息絶えようとする間際を、彼女の伴侶が見守っている。事情を知らぬ民草からすれば、愛する王妃の最期を看取りに来た美しい夫婦愛に見えるかもしれなかった。しかし、王の胸を埋めつくしているのは、嘲笑と軽蔑、どうしようも無い虚無感であった。


王妃が命を削ったのは、王からしてみれば自業自得だった。自分の『研究』にうるさく反対し、自ら毒を飲んでまでその行く手を阻もうとした。ただでさえ身重なのに、まさか自分の体を害することはないだろうと高をくくっていたあの時は驚愕したものだと、王は過去を振り返る。


そこまでやるのか。

そこまで私が気に食わないのか。

おまえは一体、どれほど私の前に立ち塞がれば気が済むのか。


ここで死なれたら胎児もろとも、勝ち逃げされるような気がした。諸外国と比較しても先進的な王宮の医療を施し、王妃の命をつなぎとめ、なんとか子供は生まれたーーーひとり、計画をはずれた者がいたが、『研究』はおおむね成功であった。

『研究成果』は日に日に成長していく。ひとつの失敗作には目をつぶるとして、それ以外は順調だった。自身の研究成果が目に見えて良いものだと実感する度に歓喜の感情が沸き立つ。王妃も、かつては科学をかじっていた身であるのに、その喜びが何故分からないのだろう。その上、彼女は成功作よりもプロトタイプや失敗作を愛でていた。科学者としてあるまじき行為だ。そんな王妃にこれ以上失望したくなかったので、王はいつしか王妃に会うのをやめた。

まともに顔を合わせたのは、王妃の産後以来となる。それまでずっと王妃は、北向きの塔で療養生活を送っていた。療養生活とは聞こえが良いが、要は軟禁だ。彼女が下手なことをしないよう、常にメイドや警邏を傍においていた。今更青白い病人に何をされることもないと笑われるかもしれないが、王である自分こそが、あの女の忌々しさと追い込まれた時の恐ろしさを知っている。だからこそ、彼女の寿命のロウソクがじりじりと溶けて尽きるのをただ、見計らっていた。それが自分の計画を邪魔されないための、王にできる最善だった。


そうして、やはり計略はうまくいったのだ。王妃の主治医には、今夜が峠だと言われた。峠を越しても正直、また小康状態に持ち直すのも五分五分だと言われる。純粋に患者の安否を思う主治医は胸が張り裂けそうな顔をしていたが、王の心は凪いでいた。むしろ、やっとのことで平穏を手にしたと言ってもいい。そういう訳で、今王妃を見下ろしている王の顔は穏やかなものだった。


苦しげな呼吸音が一瞬途切れ、閉じられていた瞳が開けられる。今まで魘されていた王妃が目を覚ましたのだ。自分の姿を認識した瞬間、彼女は驚いて目を丸くしていた。当然だろう、ここに王が訪れるのは数年ぶりのことなのだから。

敵意か、恨み節を吐かれるか。己の周りの人間たちが死ぬ際に垂れ流してきた感情はいつもそれだった。だからこそ待ち構えていた王に、王妃はなんとも拍子抜けする対応をした。


「……何故、笑っている?」

「……」


王妃の唇は、静かに弧を描いていた。それは皮肉でも自虐でも、ましてや嘲りでもない。ただただ、穏やかな笑みだった。美しい笑みであった。頬はこけ、顔色は青白く、寝台にさらさらと流れる金髪はくすんでいた。ゾッとするような美しさはあるものの、彼女の往年の美貌は病魔によって損なわれている。それでも、笑顔だけは出会った時と変わらない美しさだった。

王の問いかけには答えず、王妃は絶え絶えに言葉を紡ぐ。


「なつかしい、わね」

「……何だ」

「この塔、あなたが、プロポーズしてくれた……あなたに、結婚しようって……愛しいって、言われた、の」


……確かに、この塔の屋上で彼女に甘い言葉を囁いた。今の王妃の、苦しげに上下する胸元で揺れている宝石は、その時に送ったものだ。夫婦仲は冷えきって……いや、元々無いようなものだったが、まだその首飾りを彼女がつけていることに気づき、王は急激に苛立ちが吹き上げた。

どうしてこんな間抜けな女に振り回されなければいけないのだろう。

そう、間抜けな女だ。

自分に騙されて結婚して、あれだけ計画に反対したのに結局子供を守れず、自ら飲んだ毒が遠因で無様に野垂れ死にする。

まるで道化だ。お前の人生は一体何だったのだ?

王は、唐突に生まれた黒い衝動をそのまま王妃にぶつけることにした。どうせもうすぐ絶える命だ、今まで自分の計画の邪魔をしてきた女への意趣返しくらい、しても良いだろう。ベッドに一歩歩み寄り、氷のような声音で王は告げた。


「愛してなどいない」

「……」

「おまえのことなど、欠片ほども愛していなかった。あの時も。ずっとだ」


どう思うだろうか。余裕ぶった笑顔で平和ボケした言葉ばかりを零れさす唇は、とうとう呪いを撒き散らすだろうか。想像する王の胸の内に、昏い喜びが湧き上がる。

しばらく王妃は黙っていた。ぼうっとした顔で王の顔を眺めていた。あまりのショックで声も出ないのだろうか。愛など無いことなど傍目から見ても明らかだっただろうに、自分が必死に精神の柱にしていたものが目の前で折られて、驚愕しているのだろうか。そう王が結論づけようとした時、鈴のなるような囁きが沈黙を裂いた。


「知って、いたわ」

「……ッ?!」

「あなたが、あいしていないこと。でも」


「あいしていたわ、あなたの、ことも」


それきり、王妃は唇もまぶたも閉ざした。どこか満ち足りたような笑顔は、最後まで崩れなかった。まだ呼吸は苦しげだが、ふたたび眠りについた王妃を見て、棒立ちしていた王はやっと足を動かせた。そのまま、王は逃げるように冷たい石壁の塔を後にした。


王妃の葬儀は、一週間後に行われた。簡素な式だった。彼女に仕えていたメイドと……式場の隅に隠れたがはらはらと泣いていたが、それ以外の者は涙は流さず、口を閉ざし、厳粛な雰囲気の中で式は行われた。

あの夜の王妃との面会が、王が見た最後の生前の姿となった。塔から帰った王はそのまま政務に打ち込み、また以前のように王妃に会いに行くことなど無くなった。王妃が亡くなったのは面会の四日後の朝方だった。報告を受けてからは、葬儀の手配も諸国への電報も全てスムーズに行われた。また明日から政務が始まる。王妃ひとり死んだところで、王の世界は特に変わりなく回り続けるだろう。


葬儀を終えて夕食もとり、ふたたび書類と向き合っていたところで、副官から声をかけられた。今日はもう休んだ方が……と言う彼の言葉を素直に受け取る。彼の目には、王妃を喪って傷心の中仕事に打ち込む男やもめに自分が見えるのだろう。全くそのような事は無いのだが、特に急ぎの仕事もない。言われた通りに自室に引っ込んだ。

服を着替え、鉄仮面を外してテーブルに置いた時、軽い金属音が足元に響いた。何が落ちたらしい。床にしゃがみこむと、深い青がきらきらと光っていた。

ラピスラズリのペンダント。

最期まで身につけていたものだと、葬儀の前に神官から手渡されたものだった。その時、棺に入れられた王妃の死に顔を初めて見たことも、連なって思い出してしまう。静かに眠っているような顔だった。あの日、自分が最後に見た顔と変わりない顔が、白い花々に彩られていた。


唐突に、吐き気が込み上げる。

ぐっと手で押さえて何とかこらえた。そのまま床にしゃがみこむ。ビロードの絨毯に手をついた。汗が噴き出し、背筋を異様な寒気が襲った。今自分は、何を。


『あいしていたわ』


呪いに等しい声が脳内に反響していく。放っておけば走り出してしまいたくなるようなこの狂気を理解できる人間を、王は求めていた。しかし、その狂おしさを理解できるたったひとりの人間をーーー出来損ないの息子を、既に突き放してしまったことに王はまだ気づかない。

孤独な男をひとり置いてけぼりにしたまま、或る女の命の火が消えた城の夜は深い闇に包み込まれた。


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