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前章において、分配ルールは対立する利害をもつ複数集団間の交渉の結果として生まれることを述べた。通常、この時成立する分配ルールが社会的に正当なものであるか否かは、そのルールが公正なものであるか否かという形で表現される。それでは公正性とは何か。我々はしばしば経済活動の良否の判定基準として効率性の概念に言及するが、効率性 とはある目的に対する手段としての、相対的には下位の概念であり、したがってそれを公正性の考察の出発点とすることはできない。公正性とは、我々が効率性以下すべての経済的概念を用いる際の前提となる経済社会それ自体、 協力体制それ自体を存続させるためのルールの正当性を判定する原理である。この意味で我々はすべての経済問題 の出発点を、この分配ルールにおける公正性の問題、その内実の理解におかねばならない。

 

では、「公正な分配ルール」とは何か。我々は個々の行動場面において、他の人々、あるいは「社会」による自ら の扱いに対して、正当性、不当性を感ずるが、その根本基準となるべき「社会的公正性」とは何かについては、必ずしも明瞭な認識を持っているとは言えない。常識的理解では、公正とは「公平なこと」であり、公平とは「偏らないこと」であると言われる。では何をもって偏りを判断するのか。私は、公正の内容に対する第一次的接近としては、各人が「正当に扱われている」と感ずる状態をあげたい。このような状態を公正な状態と呼び、その状態を 実現できるルールが公正なルールであると定義したい。おそらくこれが伝統的な「公正」の概念を最もわかりやすく表現したものではないかと思われる。では何をもって我々は「正当に扱われている」と感ずるのか。

相互の生存のより確実な実現を目的とするところの人間間の協力形態は、「負担」と「成果」の分配ルールからな っている。ルール形成の必要性と可能性は、合意形成主体の異質性と同質性から生ずる。彼らは相互に戦って相手 の食料を奪うことで自分の生存を確かなものにするよりは、協力してその成果を分け合う方が有利であると考えるほどには同質的であるが、生じた成果の分配をめぐって自己のより多くの取り分を主張して争うほどには異質的で ある。厳密にはこの異質性の程度は、目的主体としての自己と他との境界線をどこに引くか、他人の利益のどこまでを自己の利益と見なすかという問題を含む。時折存在する他人に対する自己犠牲的な救助活動、または親から子 への同様の行為などは、この純粋な、あるいは閉じられた利己的性向への疑いを誘うが、それにもかかわらず、各人はやはり「自己の」取り分をより多く望むという一般的な

利己的性質を持つことを否定することはできないであ ろう。取り分をめぐる争いの存在と、それゆえの共通の合意された、すなわち公正な分配ルールの必要性は否定され得ないであろう。

本章ではまず、価値判断と目的主体概念の研究との関連について検討する。何をもって公正性の基準、内実とするか、または何をもって政策の「正しさ」の基準とするかは従来余り突き詰めては検討されてこなかった。政策目 的については功利主義的目的観が論証なしに提示されるか、あるいはロールズにみられるように一定の考察がなされたにしても、全員一致の結論とそれを保証するための無知のヴェールという非現実的想定が公正性の内実と論じられるにとどまっていた。これに対し、本章での基本的主張は、分配の公正性を「異なった目的主体観を持つ諸集団間の、力の均衡」としてとらえるということである。目的主体観とは「誰の、どのような状態をめざして」人間 が行動するかという観念であり、公正観を形成するための原初的、動機的な基礎となるものである。孤立した個人、 あるいは集団の成員としての個人が、ある制度、ルールを公正と判断するか否かにおいては、まずそれが彼らの目 的主体観に寄与するものであるか否かが重要となる。仮に寄与しない場合でも、暴力的あるいは多数決の強制によってそのルールを受け入れる以外にない場合には、それはやはり社会的には従うべきもの=公正なものと理解され る。(ここで目的主体観とは、各人が、どの人間主体のどのような厚生をめざして生存していると自己理解しているかの認識のことである。) 以下、まず第一節では目的主体概念と価値判断との関係を明らかにし、目的主体概念が経済社会における規範的 概念として、十分に科学的研究の対象となり得るものであることを論ずる。第二節では公正の概念における本質的 要素としての合意の本質は力の均衡にあることを明らかにする。

第一節価値判断と目的主体観

一八、一九世紀の市民社会形成期においては、目的主体観、すなわち「誰のために」の問題は、経済活動の成果 の階級的分配の問題として多く議論された。しかし二〇世

紀、特にその後半期においては、経済社会に関する考察 対象としては「誰がどのように生産するか」という効率性の問題に重点がおかれ、「誰のために」の問題はあまり注 目されないようになった。一つにはこれは、旧来の階級的視点からの分配問題が労働者階級の生活水準の高まりに よってその重要性を減じたことによっていたと言えよう。そして、「誰のために」の問題は主に個人的判断にまかされるべきものとして、すなわち市場における投票権としての各個人が持つ貨幣の支出状況が決める個人的問題として扱われるようになった。

しかし、二十世紀末の現在、我々の前には再び、あるいは依然としてと言うべきであろうか、この「誰のために」 の問題が大きく現れている。労使間の分配にせよ、災害被災者への援助にせよ、年金拠出の方法の選択にせよ、海 外の低開発国への援助にせよ、今われわれが直面するすべての分配問題の解決のためには、この「誰の、どのよう な状態をめざして」の問題が解決される必要がある。なるほど、それは各個人の生存戦略の根本問題であり、優れて個人的な問題である、それゆえそれは各人の判断に、すなわち各人の貨幣支出の仕方に任せるべきである、との 意見は一応説得力を持つかに見える。しかし実はこのような考えは、「目的主体観については社会的合意は成立しに くい」という直観的な信念から直ちに「したがってこの問題は科学的に研究する必要はない、また、研究すること はできない」という結論を導き出すという、非論理的な直観的信念の表明でしかない。仮に社会的合意が成立しに くいものであったとしても、現実の社会においては、異なった目的主体観を持つ集団間での力関係によって、結果 としてある種の目的主体観がその社会で支配的にならざるを得ないような種類の政策、社会的選択が行われている のであり、それは各社会構成員に大きな経済的影響をもたらさざるを得ない。

したがって、どのような経済ルールであっても、それが前提する「目的」を、すなわち目的観、目的主体観を明示することなしにその是非を論ずることはできない。この目的主体観を明らかにし、そのための手段として選択している諸制度、ルールがそれに整合的か否か、さらにまた目的主体観自体がいかに変化するか、そして異なった目 的主体観を持つ社会構成員の間で、支配的な、あるいは合意された主体観はどのように決まるのか、という問題を 解明することなしには、「価値判断なしの中立的、客観的経済分析」、「手段としての経済活動」の分析は、実は形容 矛盾であるということになろう。経済活動の「効率性」に限った分析も、それが真に中立的、無目的性を保とうと すれば、それはいわば無数の並列的目的に対する可能性分析を行うという、逆に無意味な、また不可能なものとなってしまうであろう。

この目的主体観の問題において、現存する諸目的主体観の把握と、それらのうちのどれが「社会的」なもの、すなわち社会的に選択されたものとなるか、また、そこでの選択過程では各集団の力関係がどのように働くか、という考察自体は客観的になし得るものである。人間の目的主体観がそれぞれ異なるであろうということは、人間の多 様性から容易に推測できることである。しかし、そこから、「目的主体観に関する議論を行ってはならない」と結論 するとすれば、それはまさにある個人的、禁欲的価値判断を社会に強制するものでしかない。なぜならば、様々な 目的主体観を持つ人間が存在すること、それらの間に優劣をつけることはできないことは事実として当然のことで はあるが、その上で個々の人間がそれぞれの生存戦略として社会を構成することを選ぶとき、この諸種の個人的目 的主体観のうちのあるものに有利になるような社会を構成しようと行動する可能性は、各人の自由な選択肢の一部 として含まれており、そしてその可能性は先述のように実際に実行し得るものであるからである。

この問題に関連して、かつてロビンズが提起した見解は、ある特定の経済的目的をすでに「正しい」ものとして そのための手段を考察するという態度は誤りであるとするものであった。彼は経済学は目的を所与として出発する ものと考える。目的は与えられたものであって、その正しさについては経済学は判断することはできないとする。 そこで具体例として批判されているのは、個人間効用比較を可能とする前提に立って平等な所得分配を是とする考え方であった。

しかし、彼の議論には、それではその所与とする目的をある研究者はどのように選ぶのか、それを選び採り、研究するに足ると判断する基準は何であるのかが示されていない。合理的選択肢を研究する学問においては、なによりもまず目的の有意性が証明されていなければ、それは逆に非合理的、非効率的な分析となってしまうであろう。 彼は社会運営における個人的自由の範囲を擁護し、功利主義的要素を否定しようとする。しかし、その余り、逆に目的観を含む研究対象選択における個人的自由の範囲を狭めてしまっている。

そもそも経済活動は目的合理的な行動であり、最適な協力関係の創出をねらった行動である。そして、いかなる 協力関係、分配関係を最適とするかは、参加主体の目的主体観にかかっている。目的主体観は個性的なものである 以上、そこから導き出される各人の望む分配関係は多数存在する。しかし社会を形成するためには彼らはある一つ の分配関係を選ばねばならない。そこにおける社会的な選択過程の核心は議論と納得が理想ではあっても、究極の ところは衝突と力関係がことを決する。そこにおいていかなる目的主体観があり、それらの間の関係は、そして選 択過程における各契約主体の力関係はどうなっているのか。これらはすべて客観的に研究できることである。「望ましい」目的主体観を示すことをめざすのではなく、どのような目的主体観がそれら相互間の交渉過程の結果として 支配的となるかを明らかにすることをめざす。これは価値判断ではない。科学的研究の一部である。

このように、ある社会における目的主体観の設定とは、異なる見解をもつ集団間の力関係の結果としての社会的 目標の設定として理解できる。ロビンズにも目的観をめぐる闘争について次の言及があるが、それはこのような分 脈に位置づけることによって積極的意味を持ち得る。「政治的闘争の乱戦において、見解の相違は、目的についての 相違の結果として生ずるかも知れないし、目的を達成する手段についての相違の結果として生ずるかもしれない。 ところで第一の型の相違については、経済学も他のいかなる科学もいかなる解決策も提供することができない。も し目的について我々の見解が一致しないならば、それは、女の血を流すかあるいは我が血を流すかーあるいは相違 の重大さないしは相手の相対的強さによっては、生きるか、生かしむるかーの問題である。確かに超越的視点から 解決策を提供する必要はない。だが、少なくともそれぞれがいかなる目的主体観を持っているか、また、どの目的 主体観をもつ集団が優勢となりうるかについての情報を提供することは相互の行動の効率化のために有効である。 それによって各人は自らの行動を変更、改善できる。こうして、目的論の分野は客観的に研究可能な分野である。従来の政策手段論からこの問題(=政策目的論)にまで遡ることによって、我々はいっそう効率的、合理的な政策手段 を選択することが可能となろう。

M・ヴェーバーは、人間はある目的を設定し、それに対する最も効率的、合理的行動を採ろうとするものである と考える。そして、彼もまたある目的に対していかなる手段が最適かを解明するのは学者のなすべきことであるが、 ある目的自体に対してかくあるべしと論ずるべきではない、そうするならばそれは自己の個人的世界観の押しつけ となる、と論じた。ミュルダールはこれに対し、なんらかの目的を任意に選ぶことは、そしてそれはどのような研 究においても出発点となるものであるが、たとえばそれがすでに他人によって設定されたある目的のための手段を 考察するものであるにせよ、そこでその目的を選択することによって、他の幾つもある諸目的の中からそれを研究 対象とするに値するものとの価値判断を行ってしまっていると論じ、その意味ではいかなる研究も「客観的」なも のはありえないと述べた。ジョン・ロビンソンも、たとえば一つの体制を前提にある問題を研究することはすでに 他の体制との比較を行うことであると述べている。

彼らの見解が示すことは、結局、どのようなテーマ設定も研究者の世界観に影響されていること、そしてそのテーマがある価値観を前提したものである場合にはそれを明示する義務があるというものである。前者については、 たとえば私が本書のテーマを選んだことは、いわば私の持つ諸研究対象一覧のなかからこれを今研究するに値する もの、重要なものと判断したがゆえである。

しかし、本章の問題対象は、これらの問題とは若干異なる。本書での目的主体論は、ある世界観、特定の目的主 体観に立った、それに適する政策的手段の解明でもなければ、ある目的主体観が優れていることの証明に関する議 論でもない。ここでの焦点は、諸目的主体観がどのように存在し、それらが相互にどのような力関係を持っている か、さらにその力関係の結果はどうかにあり、そしてこれらの問題が負担と成果の分配ルールに関する社会的合意の方向に影響する重要な要素であることを論ずることにある。

そしてまた、社会の構成員の持つ、分配ルール決定に関わる諸目的主体観の内容とその合成結果、そしてその後 化の方向、これが目的主体観に関する本書の問題対象である。これらが解明されたとき、こうして成立する社会的 合意としての目的主体観に対してどのような分配ルールが、あるいはより詳細な政策的手段が必要かが効率的に考 察し得る。このような問題対象は、先験的、独善的な個人的価値観からの考察を意味しない。それは社会的合意と しての目的主体観、すなわちその意味で「公正な」目的主体観の歴史的変化の物理的法則を見つけようとするもの である。

第二節 公正の本質としての力の均衡

あるルールが存続しているということは、その社会の構成員のうちの強者、民主社会においては多数派集団が、 それを変更するよりもそのもとで行動する方が自己の利益が大きいと判断していることを、そしてまた少数派集団 も、その暴力的変更を要求するよりは、それに従う方が利益が大きいと判断していることを意味する。こうして、 社会的強制力を持つあるルールの存在、存続それ自体がその社会におけるそのルールの「公正性」を示している。 このような公正性の理解は、ある時代のある特定のルールに対してなんらかの超歴史的な内容を与えようとする理 解とは異なる。むしろここでは異なった集団間の諸力の間の均衡といった動的内容、状態としてそれをとらえよう とするのがその主張の眼目である。

な意味での公正なルールは、歴史的に様々に変化してきた。この視点からは、政治的平等性が広く認められるに至った現代からはとうてい認められない制度、ルール、たとえば奴隷制も、それがある時代において強者と弱者の間の均衡状態として存続していた限りでは、「公正性」をもつものと表現される。主人と奴隷の関係のよう に強制された形での「社会的協力」は、確かに近代的な協力関係としての自発的合意には反するものであるが、我々 が「公正」の内容を、ある特定の時代のそれを基準として、他の、特にそれ以前の時代のそれを判定するのではなく、あくまでも当該社会の力関係の産物として生ずるものとの見解を採用する限り、我々はあるルールの公正性を、 それに対する変更要求が生じ、それが現実に変更をもたらすまでは公正であると評価すべきなのである。奴隷としての社会構成員が、逃亡あるいは反抗によって当該ルールを変更しようとせず、それよりも奴隷状態を甘受すると いう態度を選択する限りは、その期間においては彼らは奴隷としての生存を、より確かな自己の生存方法として選んだことになる。その限りでは、彼は非自発的にではあるが、その時代においてその協力関係に合意していること になる。その意味では奴隷状態さえもが社会的に公正な状態と表現されるというのがここでの考え方である。

したがって、ここでは各個人、各集団の求める分配ルールのいずれが正しいかという問題の立て方はしない。そ うではなく、異なる分配ルールを求める社会構成員間で一定の協力体制が存続しているとき、そこに現に実現して いる制度、ルールが「公正」であると表現されるにすぎない、社会的公正性とはそのようなものであると考えるの である。この意味で、公正とは力関係のーそしてその現代的形態は民主的な勢力関係のー結果である、そして一般 的にはそれが強制されたものか自発的なものかは問題ではない、と定義されるのである。

以上より、公正性とは何かという問題に対する本章での基本的な回答は、公正性とは「社会的に合意されたルー ルであり、その本質は異集団間の力の均衡にある」というものである。この場合、社会的にとは必ずしも全員一致 を意味せず、その社会の支配的見解として、その通用性が存在してさえいればよい。ここでは合意形成への経緯を より広く認め、それが自発性によるものか否かは問わない。ゆえに、それは民主的多数決による場合もありうるし、 暴力による支配者層による強制の場合もありうる。本章でこのような想定を行う理由は、公正性とは「社会的に実現しているルール」である、との本質的特徴を際だたせるためである。どのような経緯によるにせよ、そこで公正 概念が成立するために必要なのは、その社会の大多数が現実にその観念に、またそれによって成立する制度、ルー ルに従っているということである。この意味で、負担と成果の分配に関するある観念、制度の定着がある場合には、 それを公正な状態と呼ぶ。これが本章での公正性の理解である。

小括

本章での結論は以下の通りである。 (1) 経済活動の議論に際して、目的主体観を含む個人的価値判断のいずれが「正しい」かを問うのではなく、い かなる種類の価値判断が存在するのかを問うことは科学的研究の一部である。 (2) 公正性とは、自発的か否かを問わず、あるルールが合意されている状態 (あるいは合意されている内容)を指す。 社会の制度、ルールの展開方向を研究するためには、それに関わる個人、特に利害共通集団の利害の内容の分析 が必要である。(そこには、先験的、普遍的な「功利主義的、社会的」行動動機は存在しない。たとえば、功利主義は消費財の平等な

分配を要請する、といった表現は誤りである。平等な分配を要請するのは、多数派集団の要求としての形をまとった「功利主義」として

の、個人的利己的動機である。――この点は次章であらためて考察する。)

(1) 分配と生産の関係について、J・S・ミルは、生産には避けられない自然的法則性があるが、富の分配はそうではないという

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