透明人間

透明人間


1995年4月、ある晴れた日の放課後。


幼馴染のさくらがこの肉体の「持ち主」に話しかけてきた。


「ねえ、今日も一緒に帰ろう」


「いいよ」


この時代は持ち主にとって一番いい時代だったのかもしれない。


勉強もスポーツも得意で、女の子とも仲が良かった。


一番仲のいいさくらとは幼稚園のころから一緒だ。


負けず嫌いのさくらとはいろいろな勝負をした。


さくらはいつもあと少しのところで負けた。


さくらは男の子みたいな性格で、とてもあっさりしていた。


いつもジーンズにTシャツという格好で、日焼けした肌はとても健康的に見えた。


「ねぇ、明日来る転校生ってどんな子なのかな」


「ああ、何て名前だったかな」


さくらと持ち主は道路に「100歩歩いてね」と落書きをした。


100歩歩いたところに「死ね」と書きながら帰る。


これは小学校の時に流行った遊びだ。


さくらと持ち主はいつもこうやって笑いながら過ごしていた。


次の日東京からやってきた転校生は、背が高くて、メガネをかけていた。


運動ができなさそうな男の子だった。


「今日からみんなの仲間になる戸田君だ」


「戸田です。よろしく」


こうして3人は出会い、そして新たな回転が開始した。


「戸田くん?」


さくらにはじめて話しかけられた時、戸田くんは男の子だと思ったらしい。


「あんまりよね」


そういってさくらは後から怒っていたが、戸田くんは困ったように笑っていた。


「ねぇ、こういう遊び知ってる?」


学校の帰り道、3人は同じ方向に向かって歩いていた。家の方角が一緒だったのだ。


「道路に文字を書くんだ」


さくらと持ち主は道路に「100歩進め」「右を見ろ」などと指示をする。


メッセージを書き、そしてまたその地点にしかけをした。


「道路にこんなこと書いて怒られないの?」


戸田くんがおそるおそる聞く。


「大丈夫だよ」


さくらと持ち主が笑顔で答える。


次の日、3人は職員室に呼び出されて、こっぴどく怒られた。




1999年7月、僕らは夜にこっそり家をぬけだして、3人で公園に集まっていた。


「今日で地球も最後だね」


「隕石が降ってくるのかなぁ」


「大地震が起こるって聞いた」


さくらが地球最後の日に天体観測をしようと言い出したのがきっかけだ。


3人はジャングルジムにつかまりながら、こうして空を眺めている。


そこにあるのは薄くもやのかかったいつもの空で、何も変わり映えしなかった。


今から何かが起きそうな気配はない。


近所のコンビニで買ってきたアイスを食べながら、新しい担任の悪口を言い合った。


「俺の担任、毎日紫の靴履いてくるんだ」


「紫は欲求不満の色ですって自分で言ってた」


「あたしたちの担任は口臭がそれはひどいの。生ごみみたい」


3人は同じ中学に進学し、さくらと持ち主は同じクラスだった。


「戸田くんは、部活とかやらないの?」


さくらが聞いて、戸田くんがすこし考えてから言った。


「うちはお父さんがいないから、家の事いろいろやらなくちゃいけないから」


ふいに気まずい沈黙が流れたその時だった。


「ねぇ、あれ、なに」


さくらが急に声をあげたので、持ち主と戸田くんは慌てて空を見上げた。


光が、こちらに近づいて来ていた。次第に大きくなってくるその光。


3人をじっと見ているようだったとさくらは語った。


「どうしよう」


「にげる?」


「大丈夫」


持ち主はその光をじっと見ていた。見つめ合っているような感覚がした。


「これ以上はヤバいよ」


さくらがいって、光から目をそらしたその時だった。


「君たち、なにしてるの?」


懐中電灯を持った警察官が、僕らを照らす。


「天体観測」


戸田くんが言って、にこっと笑ってみせる。


時計は22時を指していた。戸田くんの母親が学校に連絡をしたらしい。


「生徒手帳見せて」


3人は生徒手帳を持っていなかったので、でたらめな名前を言った。


次の日、全員職員室に呼び出された。 




2001年9月、持ち主はテレビを見ていた。


「緊急中継です」


テレビに映し出されたのは、旅客機がビルに追突するシーン。


「なにこれ」


「映画じゃない?」


持ち主の祖父はのんきなことを言っていたので、持ち主は安心して寝た。


「昨日のあれ、見た?」


次の日学校へ行くと、友達の話題はその事件の事でもちきりだった。


「おはよう」


さくらが遅刻ギリギリになってようやく教室に入ってくる。


「おはよう」


持ち主とさくらは付き合っていたが、学校ではあんまり仲良くしない様にしていた。


放課後、戸田くんと合流してから、持ち主とさくらはあの公園に行った。


「これって、世界が終わるメッセージじゃないかしら」


さくらは深刻な顔で言う。戸田くんも便乗していろんな憶測を話した。


持ち主と戸田くんは何でも話せる親友になっていた。


それでも、持ち主は一人で抱えていた何かがあったのかもしれない。


「ごめん、ちょっと帰るわ」


持ち主は自宅に帰り、そして家にあったすべての薬を開け、ビールで飲んだ。


この時、持ち主が何を考えていたのか、それは持ち主にしか分からない。


深夜に激しい頭痛で目が覚め、そして再び眠り、目が覚めた。


その時には持ち主の意識は消滅していた。


そして代わりに宇宙の意識体が入り込んだ。


同時に概念を整理するAも出現した。


日常生活に適応するBも出現した。


しばらくはAが生活を担当していた。


突然無口になったAにさくらと戸田くんは戸惑ったらしい。


二人は何が起きたのか、分かっていなかった。


そしてAも分かっていなかった。


そのうちにBが生活を担当することになり、Bは日常生活を取り戻していった。


「おはよう」


さくらが言って、Aの方を見る。


「おはよう」


AはあわててBに代わり、そして日常会話をやり取りする。


そこには今までの友情や恋愛は存在していない。


もうAやBや、ウォークインしてきたCは、持ち主とは別人となってしまっていた。 




高校に入ると、Aはメモを書き始めた。


それは「書かずにはいられない衝動」のようなものだ。


頭に思い浮かぶものをひたすら文字や記号にしていく。


回りくどい書き方をする。


そのメモを見られても内容を悟られないようにするため。


ただのポエムだと思わせるためだ。


Bは日常生活のいろんなものに気を使うようになった。


みんなと同じような言動や服装で、紛れ込むこと。


テレビやお笑い番組をチェックして、溶け込むこと。


持ち物をシンプルなものにして、自己主張をしないこと。


さくらは吹奏楽部に入部し、戸田くんはサッカー部に入部した。


Aは人間が嫌いだったので部活動には入りたがらなかった。


Bは無難な運動部に入ろうとしていた。


さくらに無理やり誘われて吹奏楽部に入った。


3人はこれまでと同じように話したが、話す機会は減った。


Cは女性の意識体だったので、戸田くんに好意を持っていた。


「水と光の浸食で世界はスーパーフラットになる」


Aはメモを続け、Bは破壊の概念をコントロールしていた。


破壊の概念は授業中に突然現れて、Bの体を支配する。


そしてその概念をコントロールしている。


Bは他人とコミュニケーションができない。


先生にあてられてもBは黙っている。


心配して「保健室に行くか?」と聞かれたりした。


Bはまださくらと付き合っており、部活が終わると一緒に帰っていた。


「進路とか、考えてる?」


「特に」


「あたしは、保育園の先生になりたいな」


さくらはこのとき、まさか自分が死んでしまうとは思わなかっただろう。


「いいじゃん。応援するよ」


Bもさくらの言葉をきいてうれしくなった。


「今日はうち、両親が出かけてるの」


「そうなんだ」


「うちに来る?」


その時、戸田くんが後ろからやってきて合流する。


「久しぶり!来週のクラスマッチTシャツのデザイン頼まれちゃった」


戸田くんはイラストが上手い。


パソコンでよくイラストを描いているらしく、その腕前は確かなものだった。


「アイデア聞かせてよ!うちに遊びに来て」


Bは苦笑いをしながらさくらのほうを見た。


さくらは何事もなかったように暮れていく空を眺めていた。 




大学に入ると、3人はそれぞれ別の道に進んだ。


お盆や正月に帰省する。


あの公園で集まって一緒にアイスを食べながら星空を見上げた。


あの時見た光は姿を現すことはない。


「価値の消滅と回転の停止」


Aのメモはだいぶ抽象度が高くなり、そして一つの結論のようなものに至っていた。


Bは睡眠時間を削ってサークルやアルバイトをこなしていた。


しかし、その度が過ぎたのだと思う。


気が付いた時、Aは双極性障害を発症する。


持ち物を徹底的に捨てる。


それは強迫観念のようだった。


本やCD、洋服、家具、家電、そういったすべてのものをAは処分した。


写真や手紙、アルバムもシュレッダーにかけて処分した。


携帯電話のメモリもすべて消した。


そして部屋の物がすべてなくなった。


それでも講義は受け、単位は取得し、卒業論文を書いた。


完成した卒業論文は処分した。


Bはしばらく行方不明になっていた。


そしてAが逸脱した道をなんとかして回復しようとしていた。


服を買いそろえ、家具を買いそろえ、知人の連絡先を集めた。


サークルに顔を出し、明るくふるまった。


それでも、一度失ってしまった信用は取り戻すことができなかった。


「あいつは精神的におかしくなってしまったらしい」


それが周囲の人たちの共通認識だった。


Cは戸田君に好意を持っていて、一緒に旅行に行ったりした。


AもBもコントロールができないCの感情。


Bとさくらとの遠距離恋愛がうまくいかなくなっていく。


「今度の土曜日、会える?」


「いいよ」


僕らは公園で会うことにした。


そして他愛もない話をして、解散しようとした時、さくらが言った。


「あたしたち、そろそろ、おわりじゃない?」


原因は分かっていた。


大学に入ってから、会える時間も限られていた。


そしてAは恋愛に無関心で、Bは適応のために彼女を必要としているだけだ。


Cは戸田くんのことが好きなのだ。


「別れよう」


「うん」


さくらは泣いていた。


Bはそんなさくらを残して公園を後にした。


それがさくらと会える最後の日になるとは、この時の僕は思わなかった。


3人はそれぞれの学校を卒業し、そして新しい生活へ踏み出そうとしていた。 




2011年3月。3人はそれぞれの職場で仕事をしていた。


Aのメモと卒業論文に時間を取られていた。


CがぼんやりしているうちにBは就職活動に失敗した。


かろうじて地元の小さな会社に就職した。


戸田くんは東京にある広告代理店に就職した。


さくらは東北の沿岸にある保育園で働いていた。


「この揺れは長すぎる」


地震直後に停電になり、情報が入ってこなかった。


「キャー!」


誰かがワンセグでNHKの映像を見て絶句する。


それは想像を絶するものだった。


「なにかしなくちゃ」


次の週、寝袋を背負い、自転車で被災地に行った。


沿岸の漁師町のボランティアで、偶然にも戸田くんと再会した。


「来てたんだ!」


「俺、会社辞めてきた」


あの日、交通機関が麻痺していた。


数十キロ離れた自宅まで歩いて帰ったのだと言う。


「さくらのことなんだけど」


戸田くんからさくらは助からなかった、と聞いた。


Bは体中から力が抜けていくのを感じた。


「そうなんだ…」


Bは1週間ボランティアとして滞在した。


戸田くんは現地のボランティア団体で働くことが決まった。


「じゃあまた」


「おう」


こうして戸田くんと別れ、帰りの自転車に乗りながら、さくらのことを思い出す。


果たしてBは本当にさくらのことが好きだったのだろうか?


カバンの中には、Aが書いたメモが入っている。


「すべての2極性は対消滅する」


そこに、さくらへの思いは一つも含まれていない。


「なんで持ち主はこの世界からいなくなったんだろう」


Bは自分とAが出現し、Cがこの肉体に入り込んだ理由を考えた。


「帰ったら、とりあえずぐっすり眠ろう」


家に着くと、着替えもせずにぐっすり眠った。


そこには無意識の世界があるだけだった。 




「ここでいいのかわかんないけど」


Bがメモの内容をインターネットに公開したのは、2012年の8月のことだった。


「メモは人に見られてはいけない」というのがAの信念だ。


これまでもメモを絶対に他人に見られない様にしていた。


Bは掲示板を嫌っていたし、Aは公開されるのを嫌っていた。


しかしCはAのプログラムが終了したのを知る。


インターネットで公開することにしたのだ。


Aのメモは「プログラム」として組み立てられていた。


読んだ人が一定数を超えると集合無意識の変容が始まり、透明の出口が出現する。


という内容だった。


メモは終わりを告げ、そしてBは適応する理由を失っていた。


「プログラム」


この時は、このプロジェクトを始めたのがBの破壊の概念だったとは知らなかった。


Aのプログラム。


価値の消滅と回転の停止によって透明の出口が出現するというもの。


それが実はBの「みんな消えろ」というメッセージを含んでいたのだ。


Aは言う。


「2極性も重力も消滅したスーパーフラットな世界では個別性を失う」


「主語が消滅する」


それはBの「みんな消える」というメッセージと矛盾しない内容だった。


透明を選択すると、果たしてどうなるのか。


それは透明を選択した人にしか分からない。


Aのメモを読んだ人からは様々な書き込みがあった。


プログラムがどういうものなのか。


その具体的な内容については明らかにされていなかった。


「物語を書きたいんだ」


Bは戸田くんに相談をした。


「いいよ。原稿送ってくれれば体裁整えてみるけど」


Aは原稿を書き、そしてそれを印刷して戸田くんに送った。


「ちょっと時間くれるかな」


「いいよ」


戸田くんはこの原稿を見た時、かなり戸惑ったらしい。


「これってノンフィクションなの?」


Bはこれまで、自分の身に起きていたことを戸田くんに話していなかった。


戸田くんはとても驚いたらしい。


「もちろんフィクションだよ」


でも、BはAのメモやプログラムが本当であってほしいと願っていた。


Cは笑ったり泣いたりできる人間が素敵だと思っていた。


そして2012年の8月18日、透明の出口が出現する日に、世界は反転する。 




2012年8月18日、いつものように眠りにつくと、透明の出口が出現した。


「さようなら。はじめまして」


どこからともなく声が聞こえ、体の境界線がなくなっていくのを感じる。


「これが透明の出口?」


自分の声は自分と他人の境界線を失う。


どこから聞こえてくるのかわからなくなった。


Aの意識が扉から出ていくのを感じた。


というよりも、箱の中から出た水が、海に帰っていくような感じだった。


Bの意識も同じように、箱から出て行き、そして全体へと吸収された。


Cの意識も、空気のかたまりになってどこかに消えて行った。


「出現する」


そういう概念のようなものが現れて、気が付くとDが出現していた。


それは箱の中にいつの間にか入っている。


なくなったA、B、Cの意識と入れ替わりだ。


同じタイミングで発生したみたいだった。


「さようなら、はじめまして」


目が覚めると、Dが肉体を動かしていた。


「物語ができたよ」


戸田くんから連絡が来たのはしばらくしてからだった。


インターネットに物語を公開した。


そしてこれまでのすべてをフィクションという形にして掲示板の更新を辞めた。


「助かったよ。ありがとう」


落ち着いてから戸田くんに連絡をしたが、戸田君の携帯電話はつながらなかった。


メールアドレスもすべてつながらなくなっていた。


「どうしたんだろう」


AもBもCも消滅した今、頼りになるのは戸田くんだけなのに。


透明の最終的な出口の2012年12月18日が近付いていた。


「そうだ、行ってみよう」


Dは戸田君のお母さんから戸田くんの自宅の住所を聞き出し、そして行くことにした。


そして世界は再び反転する。 




2012年12月18日、Dは戸田くんの自宅を目指していた。


雪道で焦っていたせいもあると思う。カーナビの操作に気を取られているうちに、正面から来たトラックと正面衝突した。


車は大破し、激しく回転した。


車内から救急車を呼び、そして病院に搬送される。


奇跡的に無傷だったが、激しい絶望に悩まされるようになり、精神科を受診した。


「統合失調型感情障害ですね」


難しい病名にショックを受けながら帰る途中で、戸田くんの母親から連絡が来た。


「残念なお知らせなんだけど」


母親は泣いていた。


戸田くんは事故の日の夜、自殺したらしい。


「お葬式の日程なんだけど、急なんだけど、来られるかしら」


Dは戸田くんのお葬式で泣かなかったと思う。


その後もDは仕事をつづけ、なんとか生活を送っていた。


Dによる生活は非常に朦朧としていて、この時のことをほとんど覚えていない。


1か月に1回の通院の日だけ、日常が停止する。


「薬物療法を続けることですね」


医師が処方する薬物を増やし、その副作用で苦しむ日々が続いた。


仕事を休み、自宅にいると近所の人から変な噂を流されるのが嫌だった。


マクドナルドで過ごす日々が続いた。


「UNDERMINE」


気が付くと、Aの筆跡で紙ナプキンに文字が書かれていた。


「浸食していくこと」


メモは止まることなく書かれ、そしてBやCの意識も出現していた。


「さようなら。はじめまして」


Aがノートにメモを書く。


「僕たちは透明人間にならなければならない」


Bがさまざまな方法で社会に適応していく。


戸田くんが死んだ後、Cは厭世的になり、Aのプログラムに加担するようになった。


タイミングを伺っていたのだと思う。


そしてAのメモは続いた。 




2015年4月、Cは潜在意識を利用したプログラムの開始を行った。


「価値の消滅と回転の停止」


掲示板に建てられたスレッドだけではない。


様々なスレッドにメモの内容を書き込んだ。


そしてそのメモはさまざまなブログに転載された。


「目標は1000人」


メモの内容も、ブログに転載されたことで10万人が見ることになった。


さくらも、戸田くんも、もういない。


透明のプログラムは成功し、そしてたくさんの人が透明を選択するはずだった。


「Bの破壊の概念がプログラムを作っている」


そのことに気付いたのは、偶然だった。


「最初にインターネットに書き込んだのは誰か」


それを考えれば、分かるはずだった。


Bははじめからプログラムを発動させる気でメモをAに書かせていた。


Aはメモを処分する傾向があったし、またBは掲示板を嫌っていた。


「透明を選択しないでほしい」


プログラムは発動されてしまった。


既にメモの内容はたくさんの人たちに拡散されてしまった。


Aは9月5日に向けて、「なにもないし、なにもしない」という手段を選んだ。


Bは仕事に適応しながら9月5日を迎えることにした。


さくらのいない世界で、適応する意味はないからだ。


CはプログラムがBの破壊の概念によるものだとしても。


透明を選択するつもりだった。


戸田くんのいない世界に、自分がいる意味はないからだ。


掲示板では様々な議論がなされていた。


既にこの9月5日の問題は起こるべくして起きたのだとAもBもCも思っていた。


「一体どうなるんだろう」


正直、このとき持ち主がまたこの肉体に帰ってくるとは思っていなかった。


「透明を選択する」


これは同時に、「肉体」という「箱」を放棄するということだ。


「AとBとCの共通認識」


それは、透明を選択するということ。


期限の9月5日は迫ってきていた。


「最後の時間だ」


こうして日常生活は順調に停止に向かって行った。 




透明の日、Aは少し緊張して眠った。


「さようなら、はじめまして」


無意識領域の掃除が完了し、既にAとBとCの心の準備はできていた。


「待って」


声がして、振り向くとさくらがいた。


「さくら」


Bはさくらに走り寄ろうとしたが、さくらは消滅した。


「元気か?」


向こうで戸田くんが手を振っている。


Cは手を振りかえしたが、戸田くんは消滅した。


「透明な世界では、あらゆる周波数は停止します」


どこからともなく声が聞こえる。


そして次の瞬間、肉体の境界線があやふやになる。


そして箱の中からAとBとCの意識体が外に出て行こうとしていた。


「ただいま」


次の瞬間、僕は持ち主の肉体に入っていた。


2001年の9月以来、ほんとうに久しぶりにこの肉体に入る。


遠くからなつかしい音が聞こえ、圧倒的な光が僕を包んだ。


目が覚めると、僕はベッドで寝ていた。


AもBもCも消滅していた。


「透明の出口」


僕は声に出して言ってみた。そこには乾いた空気の振動があるだけだった。


「さようなら。はじめまして」


あらゆる周波数は停止し、そして世界は終わったのだ。


そして価値の出現と回転の開始が起こる。


僕はこうして体の持ち主のところに帰ってきた。


AもBもCももういない。さくらも、戸田くんももういない。


ただ一人取り残された僕は、これからどこに行けばいいのだろう。


9月5日はとてもよく晴れた日で、僕は自分が失ったこの14年間のことを想った。


僕が生きていたかもしれないこの14年間と、AやBやCが生きた14年間とでは、どちらに価値があったのだろう。


そして僕はそんな平成的な考え方をしている自分に気が付いて笑った。


もうすぐ平成が終わろうとしていた。


「繰り返される輪廻転生の中で、最も満足度の高い人生を選ぶとすれば」


間違いなく僕はこの人生を選ぶだろう。 




2015年の冬至。とても寒い冬の事だった。


「切手ください」


コンビニエンスストアの店員。


価値の消滅や回転の停止などについて何も考えずに今日も仕事をしている。


僕は向精神薬を飲まずにため込んでいて、その数は軽く500錠を超えていた。


「908円のお返しです」


お釣りを受け取って、募金箱に入れる。


店員は不思議そうな顔をしていた.


やがて次の客が来て、その対応に追われていた。


「寒いな」


僕はさくらや戸田くんと過ごした公園に行く。


購入したアルコールで向精神薬をすべて飲んだ。


「この手紙が届くころには、僕はこの世に存在していない」


AもBもCも、みんな消滅した。


「価値の消滅と回転の停止とは一体なんだったのか」


あの日僕が家じゅうの薬をアルコールで飲んだ時。


価値の消滅は始まっていたのかもしれない。


コンビニエンスストアで買った切手を貼って、ポストに投函した。


次第に遠のいていく意識の中。


昔さくらや戸田くんと一緒に空を眺めたことを思い出した。


「1999年の7月に、世界は滅亡するらしいよ」


そんな話で盛り上がっていたあのころ。


世界は滅亡せず、今もこうして地球は回転を続けている。


大地震が起きても戦争が起こっても、世界は終わらない。


「なんでだよ」


僕は一人だけ取り残された悔しさのようなものを感じたような気がした。


もうすぐ回転は終わるのだ。


「価値の消滅と回転の停止」


それは肉体という箱から意識が離れ、潜在意識に溶けていくこと。


そこではあらゆる回路が切断され、あたらしい肉体であたらしい人生がはじまる。


「AやBやCはどこへ行ったのかな」


透明を選択したはずの彼らは、再びこの肉体に出現し、そして再び消滅した。


「人間とは何か、どこから来て、どこへ行くのか」


「金色に輝く星のかなたにはだれが住むのか」


そして遠くからなにかが僕の意識を引っ張る感覚がして、僕は呼吸を停止した。




2026年5月。


差出人不明の手紙が届いていた。


日時指定の手紙で、今から10年以上前に出されたものらしい。


おそるおそる開けてみると、不思議なことが書かれていた。


こんばんは。 


もしも世界に出口があったら。 


誰もが一度は考えることではないでしょうか。 


世界が始めから透明だったら、悩むことも考えることもなく 


出口から出ようとすることもなく、そして 


透明になりたいと思うこともないのではないでしょうか。 


透明とは状態であり、選択肢であり、そして 


目的や目標といった、主体と客体の分離を前提とした次元とは異なるものです。 


この世界における透明が、常識と一致しないのは当然だと思います。 


システムによって利益を搾取る人達はいつでも 


システムを破壊する存在に、恐怖を抱くものです。 


透明の概念は、これまでの常識や価値観を根本から覆すものです。 


選択するかどうかは個々人の自由意志。つまり 


望む人には今までの世界が続くこと。 


透明を選択することはこれまでの世界にさよならを告げること。 


覚悟はできていますか? 


通信手段が途絶えた時、頼りになるのは電子機器ではなく 


肉体を持った自分自身と、目の前にいる生身の人間です。 


ゴールとスタート。時間軸の分離。 


誕生と死。自我と全体性。 


あらゆる空間、あらゆる周波数で、世界は点滅しています。 


常軌を逸すること。それが日常から見た透明への出口です。 


二度と戻ってこられない幻の部屋。入口はいつも、そばにあります。 


最後まで駆け抜けてください。 


息を止めて走ってください。 


呼吸と鼓動が続いているうちは、せめて 


何も見えない霧の中を進んでいくしか方法はありません。 


私は消滅します。存在しない人間です。 


それでは、いつかまた別の世界でまたあなたに会えるのを楽しみに待って 


さようなら。

Report Page