シングルマザーがシェアハウスで暮らすということ

シングルマザーがシェアハウスで暮らすということ

Megumi SUDA

こんにちは、ギルドハウス十日町に2015年9月〜2016年4月まで、娘と暮らしたメグミです。アドベントカレンダーの意味をただのカレンダーと思っていて、2月ごろに書こうかなと思っていました…が、よくよく聞いてると今年限りのスペシャルイベントじゃないですか。


我が家は世間でいう母子家庭です。いい節目なので、ひとり親家庭のこどもがここギルドハウス十日町に来るまでと、ここでどうやって過ごしてきたかを、書いてみようと思います。



生後20日目。ああ、小さかったね。

産まれた瞬間に居合わせたのは、母と居眠り中の助産師さん。

ひとり親っていう現状に嘆くヒマは全然なかった(ひとり親って未婚と離婚で、その取り扱われかたがずいぶん異なることには未だに驚きを隠せないけれども)。むしろ、ひとり親でこどもがいることで「あやかれる恩恵=まるもうけ」と思われることは前のめりに活用した。2歳まで航空券タダ、はその最たるものだった。



生後6ヶ月〜沖縄、福岡、東京、京都...。電車を乗り継いだり、飛行機に乗って、どこか知らないところへ、と渡り歩いた。こどもが受け入れられる(耐えられる)刺激の限界はどの程度なんだろう、というわたしの好奇心 も飽くことを知らなかった。

シートに座って耐えられるのは30分か。旅の後半は各駅下車しようとするから、ドアが開くたびに羽交い締め。降りられないと泣き叫ぶ。



生後10ヶ月。わたしの行動(したい)範囲に「ついてこい」と、半ば強制的にyesと言わせていたこともあったかもしれない。

親娘ともに体力と感覚の限界を確認しながら毎日を過ごす。



1歳2ヶ月、韓国。

仁川国際空港。おんぶが特等席で、みたいものはどこまでも追いかけた。



そのままインドネシア。

ちょうど離乳食期。外食が辛い国は、自分の不甲斐なさを思い知る。隣でエビせんをかじらせつつ、ハフハフ言いながら急いで食べる。



初めての海。こどもの脳みそがどんな感じで発達していっているのか、頭割って見てみたいくらい、めきめき変化していくのを感じた。

本気でシャウトした。



この旅行で持ち帰ったことは、今思えばシェアハウス移住の原点だったかもしれない。近所の人たちがどこからとなく集まり、こどもの世話が得意なじいさんがいて、おしゃべり上手な母ちゃんがいて、多世代多人種が時間を共有してて。一昔前の日本の風景ってこれかな、というのと、今こんな気分を日本で味わったことないな、という感情が交錯した。

にわとりを追いかけたり、猫の尻尾をつかんだり。牛のウンチをふんづけそうになったり。それなのに、しあわせだ、と思った。



産休期間をのびのび満喫して1年半を終え、平凡サラリーマン生活に突入した。海外遠征はなくなったけれど、ママチャリに乗せて実現可能なローカルな遊びをやりつくした。


3歳前後で、こどもはその動きや言葉を格段に操れるようになる。「自分で動いて世界を見に行く」活動が激増するのだ。アパートで二人きりの生活は、それに比例して急速な閉塞感に包まれる。「どっかいこ」といわれたら、海外旅行を夢見つつも隣町の図書館へこどもを放牧する生活。そこでのちのギルドハウス十日町をはじめる「西村治久」ハルさんの名前を見つけた。雑誌の名前は『ソトコト』だった。

あっかんべーごっこをしているときに、車掌さんと目が合う。



閉塞感打破のため、外国から旅行者を受け入れるようにしたのもこの頃からだった。これが見事に母子家庭をクリーンヒット。数日間滞在する旅行者は、こどもとガンガン遊んでくれて、おまけに仕事のあとで夕飯も作ってくれてたのだ。育児と仕事のストレスから解放されるって、こういうことかと身をもって感じた。実家では味わえない、他人だからこそできる、節度があって、人間の本来的な優しさをお互いに発揮できるという、やわらかい時間に包まれたのだった。

フランスからのカップル。別れ際に駅のホームで号泣した彼女と彼女。



3歳も終わるころ。ハル(西村)さんと約束してた日に会いに行き、なーんにもない室内を探索して帰った。その距離は図書館よりも少し遠かったけれど、心の飛躍感はとても遠かった気がする。海外に出たわけではないけれども、わたしにとって「なにがはじまるんだろう」のワクワク感。3歳の娘のそれと同じスピードになった。こどもはこんなふうに、新しい日常を味わってたんだ、ということを知った。毎週くらい通って、その秋には移り住んだ。

廃村へ廃材を探しにいく旅。パーリー建築と、ギルドハウス十日町から車で10分の秘境。



それからの毎日はギルドハウス十日町Facebookに既出の通り(まとめ早っ)。


「ただいま」と帰って来れば、誰かがこどもの相手をしてくれて、わたしは”堂々と”ご飯をつくったり本読んだり好きなことができた。日本の内外から誰かしらが来ていて、娘は金髪をなで続けたり、外国語で本を読んでもらったり、夜更かしして映画鑑賞したり、大声で歌ったり。いろいろな人が、それぞれのやり方で、彼女と関わってくれた。ひとりでは間が持たない子育ての時間が、バラ色に変化したといっても過言ではなかった。


どうしても出なくてはならない夕方以後の仕事や、泊まりの出張など、預け先がないときには、住人たちが世話を焼いてくれるようにもなった。自由度が高まったこどもといえども、気分がのらなければトイレにまで後追いしてくる娘だったから、まずは娘に「みんなと一緒にいられるか」「母さんといっしょに出かけたいか」を聞く。自分の意思を発揮するトレーニングとしても最良の場所だったと思う。


移住前、近しい人に相談すれば「そんなに賑やかなところで安心した子育てはできない」「こどもの情緒は不安定になるだろう」と否定的なことばかり忠告いただいた。今わたしたち親娘は、二人暮らし、核家族、では会えなかったであろう人の数、人の種類を経験し、「この人が好き」「この人は苦手、だけど、(距離をおいていれば)べつにかまわない」とか、生きる知恵と技術は半端なく養われたと思っている。親であるわたしが不安定になることなく、この環境を常に肯定的にとらえられたことも要因だと思っている。


母の自作自演のしょうもない二人ぼっちクリスマスとか、しなくてよくなった。


それでもわたしはストレス?が溜まり、早朝の波乗り(遊びだか義務だかもうわからない)に出かける。そんなときも戻ってくるまでこどもを置いて行かせてもらっている。どんなに子育て支援サービスが充実しても「ないよな〜」と思う。


今更ながら、ハルさん、マチコちゃんはじめ、すべての構成メンバーにとてもとてもお世話になっています。 金銭的交換や血縁的支援という常識からは、とてつもなく離れているのだけれど、わたしの中では名前のつけようのない、価値ある場所。

いつもありがとうございます。


Report Page